Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.7.10訂正
2000.6.7

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「咬 菜 秘 記」その54

坂本鉉之助

『旧幕府 3巻8号』(旧幕府雑誌社) 1899.8 より


◇禁転載◇

適宜、句読点・改行をいれています。


〔豪商の被害〕

三井の呉服店は貞か方へも年来出入にて其手代の話には、乱妨の来る前に半被を着たる穢多の様なる(も)の二三十人、店の前を西より東へ走りなからさあ早く迯げよ、無程来るそと云ひて駈けて通りたり。是は穢多の難波橋にて大塩に叱られ者共なるへし

夫より先つ店の児共を夫(々)一まとめにして天王寺村福屋へ迯し、追々手代抔も皆迯して、支配人か一人跡を改て児共抔は残りはせぬか、土蔵の戸前は〆りは能か抔 見廻り居る処へ、賊徒か来たりて、未た迯ぬかと云さま鉄砲にて打しか、支配人の尻のあたり(をかすり、)疵付られて大に恐れ驚て、夫より腰か抜て歩行事も出来す、四ツ這になつて天王寺村福屋へ逃し由なり。手疵は真の薄手にて無程治したり。一つは鉄砲にて狼狽して腰か抜けたるなるへし。〆たりし土蔵も 戸口を明けて、炮烙(鉄砲)玉を打込て三戸前も四戸前も焼たり。

是等の反物の焼屑か、南都の辺迄多散り居たるよし。兎角火を防く者をは鉄砲にて打て驚せし様子にて、迯るも者には頓着せさりし由なり。何町とやらにて土蔵の窓をぬるとて、一人は二階の窓(一人は下の窓を塗り居たるを、賊徒鉄炮にて打て二階の窓をぬりたる)者は打殺されたり。

大工の職をせし若者、騒動の様子を見んとて、外に十四五歳なる前髪者を誘引て見に行くか、鉄砲にて腕首の所を打抜れて、其玉が同道の前髪ものゝ帯にて留りたりと。是等は皆運と本運となり。

此度の乱妨中に殊更むこく焼かれたるは鴻庄なるよし。是は今橋鴻池養(善)右衛門か隣家にて、鴻養(善)と間違ひて一入むこく焼き立てし哉と云説もあり。

其次第を鴻庄より直に聞たりとて忍の留守居の話に、居宅土蔵は勿論土蔵の中の穴蔵の中迄焼れ、家財は勿論帳面証文迄悉く焼失せり。

其中銀は悉く焼け流れて灰中にかたまりあれは、何程取られたる事知れず。有合せたる正金四百(万)両といふ者は其行衛更に知れず。焼たる灰の中に流れ金は是非残らねばならぬ金(筈)なるに、灰の中には一両もなし。全く取られたる事なり。

家宝も数々ありて世間の人も指を折て算へる程の品も皆灰燼となり、其中に香合一ツ箱のまゝ損せず焼灰の中より出たると。

焼失後二三日過ぎ、仮(板)囲をして仮屋を掛て手代抔戻り居しか、夜中に仮(板)塀に物音して何哉外より投込たる故、出て見れは、大久保加賀守より貰し脇差にて、悉く赤銅七々子小金の藤の丸に大の字の紋尽しの七所物なり。夫も焼亡したりと思ひし処、一端とられて不思議に又戻りたれ(り)。され共其の身はとりかへて外の身をあわせありしと。

此二品か不思議に残りたる計なりと話せし。さらば此脇差は乱妨の時何者か取りて道具屋へ売りしか、買し道具屋も跡にて心付て、大久保の紋付なれは是は鴻庄の道具と云ふ事を聞き出して、さらは売物に持て居ては是非後日に吟味かあると思ひ、されとも慾心に身丈けを取り替て、鴻庄へ人知れず外より投込て戻し置きたる事なるべし。

貞か合点の行かぬは四万両の金なり。判にもせよ歩にもせよ、四万両といふ金、大分の荷数なり。此節の金は千両箱一ツ凡四貫目つヽと見ても 四万両は百六十貫目なり。荷数にしても十荷よりは減せす。

如何に乱妨中にて 世間の人か皆狼狽たる中にても、千両箱を十荷も十五荷も担ふて通るを誰か眼に付ぬといふ筈はなき事なり。夫を見たと云人もなく、取られたるは真実の話しなり。金の行衛は如何なりしや。是計は合点の行かぬことなり。


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