『旧幕府 3巻8号』(旧幕府雑誌社) 1899.8 より
十九日夜、東役所より玉造へ帰る頃は、最早子の刻頃にもありしか、番場は一面に焼出されの市民共なり。其躰を見るに盥の中に踞り居る産婦もあり、【艸/延】の上に臥たる病人もあり、折節疱瘡の流行せし頃にて、痘病の小児は数々也。何れも愁歎の躰にて泣より外の事はなく、実に目を当てられぬあはれなる躰なり。
夫より次第に焼出されたるもの、唯 御城近くを頼みに皆番場へ出たり。廿日の夜の大雨の時は、夫等か皆雨の凌方もなく、一声に泣立る声の玉造土橋へは鬨声のことくに聞へたり。町奉行、芝居小屋を明けて夫迄 早速這入るへしと申渡され共、矢張御城の側に居りたき由を願ひしと哉。
誠にあわれむへきことなり。
扨 此頃 頻りに流行せし疱瘡も、纔 一日の騒動にて人気の動きしより、時気も随つて又転ぜしにや、此日より後は、一人も痘を煩ふ者なくなりし、と池田瑞見か話しなり。
是を以て見る時は、下俗にて風の神を送り又稲の虫を送る抔とて、鉦太鼓を叩きて大勢寄りて為す事は、自分時来を転ること其理なしとは云へからす。
平野町中橋に住宅せし疱瘡医師池田瑞見の話に、乱妨の節は先つ母を始 婦人共を遁れさせ、跡にて(少々)家財抔を片付、夫より自分も中橋筋を南え段々迯行く途中にて、軒の下に五十才計の老婦と十三四歳の女子と母子と見えて、其母親らしき者は倒れて臥居たるを、其女子介抱しなから申には、