Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.7.9訂正
2000.6.7

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「咬 菜 秘 記」その53

坂本鉉之助

『旧幕府 3巻8号』(旧幕府雑誌社) 1899.8 より


◇禁転載◇

適宜、句読点・改行をいれています。


〔避難の人々〕

十九日夜、東役所より玉造へ帰る頃は、最早子の刻頃にもありしか、番場は一面に焼出されの市民共なり。其躰を見るに盥の中に踞り居る産婦もあり、【艸/延】の上に臥たる病人もあり、折節疱瘡の流行せし頃にて、痘病の小児は数々也。何れも愁歎の躰にて泣より外の事はなく、実に目を当てられぬあはれなる躰なり。

夫より次第に焼出されたるもの、唯 御城近くを頼みに皆番場へ出たり。廿日の夜の大雨の時は、夫等か皆雨の凌方もなく、一声に泣立る声の玉造土橋へは鬨声のことくに聞へたり。町奉行、芝居小屋を明けて夫迄 早速這入るへしと申渡され共、矢張御城の側に居りたき由を願ひしと哉。

誠にあわれむへきことなり。

扨 此頃 頻りに流行せし疱瘡も、纔 一日の騒動にて人気の動きしより、時気も随つて又転ぜしにや、此日より後は、一人も痘を煩ふ者なくなりし、と池田瑞見か話しなり。

是を以て見る時は、下俗にて風の神を送り又稲の虫を送る抔とて、鉦太鼓を叩きて大勢寄りて為す事は、自分時来を転ること其理なしとは云へからす。

平野町中橋に住宅せし疱瘡医師池田瑞見の話に、乱妨の節は先つ母を始 婦人共を遁れさせ、跡にて(少々)家財抔を片付、夫より自分も中橋筋を南え段々迯行く途中にて、軒の下に五十才計の老婦十三四歳の女子と母子と見えて、其母親らしき者は倒れて臥居たるを、其女子介抱しなから申には、

と云。の申は、 といふ。女子 といふを瑞見聞て、夫から俄に瑞見の足か重くなりて、股の辺りより筋か引く様と覚て、自分も何分歩行の出来ぬ様に覚へたるが、五六軒先きの肴屋らしき家の軒の下に、大半切桶に水を一杯汲て其中へ椀の蓋を五ツ六ツ浮して、往来の者の勝手に水の呑る様にしてありしを見付て、夫迄漸 歩行付て、蓋にて水をすくひて一口呑むと、実に蘇生したる心地して、夫より歩行も出来たり。往来の者も皆此水に立寄て呑ぬものなかりし。さりとは急変中に能計りて大勢を助けし事也と話せし。


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