Я[大塩の乱 資料館]Я
2016.12.2

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「大塩の乱関係論文集」目次


『日本史蹟文庫 徳川幕政』(抄)
その1

妹尾薇谷

岡田文祥堂・山本文友堂 1913 所収

◇禁転載◇

二二 典仁親王に太上天皇の尊号を奉らんとし松平定信之を反対す=家斉将軍の在職は徳川
 十五代の将軍中最も久し=文政以後幕綱弛頽急転直下=大塩の乱=家慶将軍多く新令を発
 す=慶喜卿大政を奉還(1)
管理人註
  

  〔前略〕                       文政以後幕鋼の弛頽誠に急転直下……!、尋いでこれに加ふるに天保の         かいだい 大飢饉があつた、海内殆んど飢餓の人を以て満たした、されば幕府は官廩                 もと を開いて餓者を賑はした、されども素より有限の廩穀を以て無限の飢民に 対すること!救済の道を尽すには足らない、道途に餓死するもの其の数を 知らず、草根木皮を食ひなどして僅かにその生命を繋ぎて居つた、餓死し たる母の乳房を吸ひつゝ泣き居る嬰児!、飢死の子供に抱きつきて泣き叫         そんろ べる父母!、都鄙村閭到る処の戸家に之を見出すのであつた、而して畿内 より東北諸国にかけて最も惨状を極めた、中にも畿内では摂津、泉州が最 も甚しかつた。  ときに大阪の与力に大塩平八郎後素と云ふものがあつた、阿波の国美馬 郡脇新町(今の岩倉村字新町)の産にして、もとの姓は三宅を称したもの であるとのことである。幼少のとき母を葬ひ、その父養育の道に究し大阪 なる母方の縁家に托して育てられたるもの!、それが長じて天満の与力大                おか 塩家の養嗣子となつて大塩の姓を冐すに至つたものであるが、稟性頴敏に して幼少のときより読書を好み、長じて王陽明派の学を修め志気鋭豁にし て経世の才があつた、其の頃の大阪の町奉行は高井山城守と云ふものがな して居つたが、後素はその属下として頗る輔佐の功績があつた、山城守が 致仕するに及び、後素も亦其の与力を辞して隠退し、専ら生徒を集めて育 英に努めて居つた。




















幸田成友
『大塩平八郎』
その7


『日本史蹟文庫 徳川幕政』(抄)その2

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