〔前略〕
つ
文政以後幕鋼の弛頽誠に急転直下……!、尋いでこれに加ふるに天保の
かいだい
大飢饉があつた、海内殆んど飢餓の人を以て満たした、されば幕府は官廩
もと
を開いて餓者を賑はした、されども素より有限の廩穀を以て無限の飢民に
対すること!救済の道を尽すには足らない、道途に餓死するもの其の数を
知らず、草根木皮を食ひなどして僅かにその生命を繋ぎて居つた、餓死し
たる母の乳房を吸ひつゝ泣き居る嬰児!、飢死の子供に抱きつきて泣き叫
そんろ
べる父母!、都鄙村閭到る処の戸家に之を見出すのであつた、而して畿内
より東北諸国にかけて最も惨状を極めた、中にも畿内では摂津、泉州が最
も甚しかつた。
ときに大阪の与力に大塩平八郎後素と云ふものがあつた、阿波の国美馬
郡脇新町(今の岩倉村字新町)の産にして、もとの姓は三宅を称したもの
であるとのことである。幼少のとき母を葬ひ、その父養育の道に究し大阪
なる母方の縁家に托して育てられたるもの!、それが長じて天満の与力大
おか
塩家の養嗣子となつて大塩の姓を冐すに至つたものであるが、稟性頴敏に
して幼少のときより読書を好み、長じて王陽明派の学を修め志気鋭豁にし
て経世の才があつた、其の頃の大阪の町奉行は高井山城守と云ふものがな
して居つたが、後素はその属下として頗る輔佐の功績があつた、山城守が
致仕するに及び、後素も亦其の与力を辞して隠退し、専ら生徒を集めて育
英に努めて居つた。
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