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同年の夏、藤堂和泉守高献親しく文を撰て其の農官に諭して曰はく、民
は是れ邦の本なり、人主は之を愛せざるべからず、歴世の名君皆民情に通
ずるを以て務めとなす、是を以て百姓悦服す、余政治に志すと禹も深室に
成長し、未だ嘗く民難を知らず、自以為しく下情に通ずるは学に在りて、
日夜帙を繙き、侍臣に問ふに、古今盛衰の理を以てす、固より菲才人主と
為るに足らざるを知ると禹も、豈拱手すべけんや、頃年凶荒し民飢う、春
来連霖して晴なく、恐らくは麦を傷らん、麦を傷らば民何を以て生活せん
故に、汝に命じて倉を発し、且富民に命じて之を助け、余も亦晨にに麦粥
を食す、封内の窮民を思ふて食咽を下らず、彼下民も本と同体なり、不幸
此に至る甚だ憫むべきなり、聞く東国大に飢ゆ、人相食むに至ると豈予備
せざるべけんや、礼に曰はく、邦に三年の蓄へなきは国其国に非ずと、苟
も之が備をなさんと欲するは蓄積にあり、蓄積は義倉に如くはなし、義倉
は先君既に之を行ふ、余も亦之を補益せんと欲す、然りと禹も今日の急務
は有司が相励み、下情を上達し、民をして飢渇を免れしむるに在るのみ、
汝之を勉めよ(文恭公実録)
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藤堂高献
1813-1895
繙(ひもと)き
晨
(あした)
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