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同年水戸藩の領内孫根村の庄屋加藤木五郎は、兼て蓄積せる米麦中籾五
斗入にて百俵を施米にせん事を願立るを、郡奉行等大に之を嘉し申立の上
執行あり、是れ当年飢饉に際し施穀友救の始めとなれり、郡吏等より各村
の富豪等へ友救の勧誘ありしに、那珂郡鷲の子村薄井某の始き金千両出す
に到り、漸々聞伝へて貯へあるものは其の義気に励まされ、救ひを出すも
の追々に増加したりと云ふ、新五郎は慈善家の名遠近に聞へ、明年春に到
り、凍餒のもの来りて憐を乞ふ多し、為に飲食類を与へ、又引継ぎて米麦
及び稗粟等の雑穀までを施救し、其の数百五十俵余なり、藩主其の奇特を
賞し一代苗字帯刀麻上下着用を許し、又盃一組を賜ひ、城中に召て優待を
受く(加藤木o叟歴書)
大日本農政類編賑済(七五頁以下)
同年(天保九年)幕府に於て岡崎の城主本多中務大輔忠民を賞す、去る
申年三河ノ国禾稼登らず、二百四十余村の農民徒党をなし、乱妨狼藉至ら
ざる所なし、忠民領内取締よく徒党に加はるもの少く、特に鎮撫の功多し
(続太平年表、南岡本多公碑銘)
忠民人となり、恭謙自ら奉ずる倹素、嘗て荒蕪の地を墾し、養老の
典を挙ぐる等美政頗る多しと云ふ
同年七月幕府に於て田原の城主三宅土佐守康直を賞す、去る甲年大違作
なりしに能く窮民救助の方法に力を尽したるがためなり(続太平年表)
田原の家老渡辺登は、領内の荒政に深く心を用ひ、嘗て佐藤信淵に
就て農政を問ふ、信淵為に田畔年中行事を著して之に贈ると云ふ
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凍餒
(とうたい)
こごえ飢える
こと
禾稼
(かか)
穀物
渡辺登
渡辺崋山
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