Я[大塩の乱 資料館]Я
2017.3.27

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「大塩の乱関係論文集」目次


『飢饉資料』(抄) その23

司法省刑事局編・刊 1932

◇禁転載◇

第三章 飢饉の公的対策
 第二 近世三大飢饉の対策
  (三)天保の対策
    四 特行を賞す (同書)

管理人註
  

 同年水戸藩の領内孫根村の庄屋加藤木五郎は、兼て蓄積せる米麦中籾五 斗入にて百俵を施米にせん事を願立るを、郡奉行等大に之を嘉し申立の上 執行あり、是れ当年飢饉に際し施穀友救の始めとなれり、郡吏等より各村 の富豪等へ友救の勧誘ありしに、那珂郡鷲の子村薄井某の始き金千両出す に到り、漸々聞伝へて貯へあるものは其の義気に励まされ、救ひを出すも の追々に増加したりと云ふ、新五郎は慈善家の名遠近に聞へ、明年春に到 り、凍餒のもの来りて憐を乞ふ多し、為に飲食類を与へ、又引継ぎて米麦 及び稗粟等の雑穀までを施救し、其の数百五十俵余なり、藩主其の奇特を 賞し一代苗字帯刀麻上下着用を許し、又盃一組を賜ひ、城中に召て優待を 受く(加藤木o叟歴書)  大日本農政類編賑済(七五頁以下)  同年(天保九年)幕府に於て岡崎の城主本多中務大輔忠民を賞す、去る 申年三河ノ国禾稼登らず、二百四十余村の農民徒党をなし、乱妨狼藉至ら ざる所なし、忠民領内取締よく徒党に加はるもの少く、特に鎮撫の功多し (続太平年表、南岡本多公碑銘)    忠民人となり、恭謙自ら奉ずる倹素、嘗て荒蕪の地を墾し、養老の   典を挙ぐる等美政頗る多しと云ふ  同年七月幕府に於て田原の城主三宅土佐守康直を賞す、去る甲年大違作 なりしに能く窮民救助の方法に力を尽したるがためなり(続太平年表)    田原の家老渡辺登は、領内の荒政に深く心を用ひ、嘗て佐藤信淵に   就て農政を問ふ、信淵為に田畔年中行事を著して之に贈ると云ふ

凍餒
(とうたい)
こごえ飢える
こと













禾稼
(かか)
穀物
















渡辺登
渡辺崋山


 


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