Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.3.18
玄関へ
大塩の乱関係論文集目次
「大 塩 平 八 郎 挙 兵 の 顛 末」その12
『商業資料』大阪経済社 1895.3.10 所収
◇禁転載◇
適宜、読点・改行を入れています。
商業資料 明治二十八年三月十日
大塩平八郎挙兵の顛末(其十二)
一時に吹荒みたる嵐と一般、二月十九日の放火乱妨の大騒ぎも、多くの人の加勢に因り、鎮まり果てゝ程もなく大塩父子も敢(あえ)なく滅亡し、世上漸く穏かになりしといへども、日常必要の品たる米麦其他は愈よ高直に赴きつゝ、更に下落の模様なきものから、其路に当る人々は尚更らに心配なし、江戸幕府へ其由上申に及びしかば、将軍家にても太(いた)く御憂慮あらせられ、御救ひの米銭夥多(あまた)下し置かれ、且つ各自安堵渡世いたすべき旨、漏なく夫々へ達せられしかば、市民一同広大なる御恵みの程を有難く悦ぶこと、大方ならず、四五人の者共寄ると集ると、茶飲ながらに口々の評定、
甲「何と聞な大塩も去る丑年の不幸の良民とて親類身寄りも無き、極難渋の貧民を三郷町々より書出させて、日々百文宛の救助料を御公儀様より下し置れる様取計らひたるゆゑ、市中の者等は「アゝお慈悲深いお人じや」ト、一同大塩様
を崇め奉つたが今度の一件では、実に情け知らずの胴慾漢、去り迚(とて)今の今まで大塩樣大塩樣といふたものを、今更大塩奴とも、言ひ悪し何と言ふナア、
乙「然ればサ、大概大塩ドンとでも言はす気じやろう、
丙「大塩といふものは、大い学者じや、若し他人が六かしい文字を尋ぬれば、夫は何と言ふ書物の何冊目の幾丁にある、何と言ふ字じやと、即坐に答へ、学問には、余ツ程凝たものじやさうナ、
丁「ソンなら、ちうで覚へて居るのか、?
乙「知れたこと、夫じやに因て、名を中斎と言ふのじや、
甲「ナニ仲裁どころか、真個(ほんま)の謀反じや、
丙「左樣な串談(じょうだん)、言ちやア厭ねへ、じやねへか聞ば何でも大塩と言ふ老爺は、中々の学者で、今回方々へ配つた檄文とやらも、余程立派に出来て居るさうだが、己ツ達にア、根ツから、分解(わから)ぬが、全体斯樣いふ訳なんださうだ、先づ聖人とか賢人とかの戒しめを書き、夫から東照公の仰せ置れしお慈悲の語を認め夫から今ま眼前(まのあたり)不幸(ふさいわい)の良民を選み出し、公儀よりお救ひあるやう致したい抔との趣意にて、畢竟己(おら)程の博識学者は無い、此樣学者を埋木同様に為て置くのは詰りお上の御政道が悪い、夫じやに因て身を犠牲にしても、諸民を助けると言ふ天晴な言立だといふが、ソンナラ卒(いざ)と言ふ暁に、立派に自殺でも為る事か、未練にも迯隠れ、死後の極楽浄土は暫らく置き、生前の地獄、剣の山、焦熱の呵責を受たりとは、神の御咎めか、仏の罰か、余りと言へば馬鹿々々し、仁義忠孝の道を他人にも教へ諭せし身が、斯る無法の企を為し、数代の家名を汚し、多くの人に難義を懸けるとは実に天魔の魅入しものか、
甲、乙、丙、丁皆々「ナニ天満ばかりじやア無い、舩
場も上町も皆なたア、………
抔と寄ると触ると皆各自が口々に唱ふる程にて、放火の為に家屋舗を焼れ、苦境に沈みし者は、実に数知れず、上町は谷町、松屋町より舩場にて北浜、高麗橋筋、平野町天満辺に至るまで、家数三千三百八十九軒竃数一万二千五百七十八軒其他明家、土蔵、穴蔵、納屋等数ふるに遑あらず
慶長の昔し関東勢の為に太く荒されし以来、大坂の地に於て又たと無き騒動なりしとて、諸民は一方ならず憂ひ居たり、斯くも惨状を来せしも畢竟幕府役人が、久しき泰平の御代に慣れ、奢恣に耽り、武備を疎かにせしに源因せるなり、慎まざるべけんや
又た斯く一時猖獗を逞ふせし、賊魁大塩平八郎等が、一味徒党も今は残りなく召捕はれぬ、
因て其向々よりは市中に夫々お触示しありて、救助の儀を漏れなく達せられけるが、其時又た堀伊賀守への御沙汰に
跡部山城守組与力格之助、父隠居大塩平八郎儀容易ならざる不届きの企いたし、放火乱妨に及び候節、早速出馬致し、消防並びに捕り方夫々
差図に及び、悪徒共速かに散乱相鎮め候次第、彼是心配骨折り候故の儀にて、一段の事に候、不取敢此旨可申聞との御沙汰に候、
とあり又玉造御定番への御達し書面は
跡部山城守組与力格之助、父隠居大塩平八郎儀不容易不届の企いたし及乱妨候節、加勢遣はし候組与力同心共、一同相働き右の中にも坂本鉉之助儀は、山城守出馬の節、鉄砲打掛け候一揆の場合近く相進み討取候ものも有之故、悪党共及散乱候次第に至り、一段の事に候、組の者ども彼是骨折候段先づ可申聞旨年寄中よ
り、奉書を以て被仰下候
右之趣き其節罷出候同心共へ可申聞候而して跡部山城守殿より玉造組与力中へ達せられ
たる演説書は
当二月十九日組与力格之助、父隠居大塩平八郎儀、不容易不届の企いたし、放火乱妨に及び候節、早速出馬致し、速かに散乱相鎮め候次第彼是心配骨折り候故の儀、一段の事に候、取敢ず此旨申聞べきとの御沙汰の趣き、江戸表より仰下され、御城代土井大炊頭殿より、御書付を以て御申渡し難有仕合せに候、右は其節各方格別に出精之儀ゆゑ、悪徒ども速かに散乱いたし候事にて、全く各方身命を抛ち相働かれ候ゆゑ、右之通り御褒詞成下され候儀に有之、依て此段吹聴旁々申述候間、同席中へも厚く申進られ候様頼み入同心中へも同様頼み入り候、
四月 跡部山城守
とあり殊に骨折料として左の目録を添えられける
一 銀貳枚宛 玉造組与力七八人
一 金三百疋宛 玉造組同心中五十四五人へ
太平久さしく打続きたる頃ほひに、偶然(ふと)騒立し一揆の兵、殊に市中の町々も、多くは兵燹(いくさび)に罹り、焼払はれし惨状(ありさま)に、人々多く畏怖の念を抱かざる
はなかりし、
其ころ人気余りに堅く引立しかば、其を和らぐるためにや誰家の女か、糸竹に合せて謡ひ囃せし歌あり、
くろ土の埋もれたる所をば、
立てゝみたやのやぐらこそ、
独り居る身はあだやぐら、
夫(それ)は正しく謀反といふて、
内の女子(おなご)は土地も知ず、
ポンと打たる弾丸(たま)の音、
昨夜(ゆうべ)の報告(つげ)で、
今朝知れて口惜し腹立ち、
遣る瀬なや、
知るゝとしらで知る白旗、
「浮世の有様 巻四 文政十二年大塩の功業」その1「演舌書」
「大塩焼け被害一覧」
「大塩の乱銃撃戦 発砲記録(幕府方)」
「大塩平八郎挙兵の顛末」目次/その11
「大塩平八郎挙兵余聞」その1
大塩の乱関係論文集目次
玄関へ