Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.3.18

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 平 八 郎 挙 兵 の 顛 末」その12

『商業資料』大阪経済社 1895.3.10 所収


◇禁転載◇

適宜、読点・改行を入れています。


商業資料 明治二十八年三月十日

大塩平八郎挙兵の顛末(其十二)

一時に吹荒みたる嵐と一般、二月十九日の放火乱妨の大騒ぎも、多くの人の加勢に因り、鎮まり果てゝ程もなく大塩父子も敢(あえ)なく滅亡し、世上漸く穏かになりしといへども、日常必要の品たる米麦其他は愈よ高直に赴きつゝ、更に下落の模様なきものから、其路に当る人々は尚更らに心配なし、江戸幕府へ其由上申に及びしかば、将軍家にても太(いた)く御憂慮あらせられ、御救ひの米銭夥多(あまた)下し置かれ、且つ各自安堵渡世いたすべき旨、漏なく夫々へ達せられしかば、市民一同広大なる御恵みの程を有難く悦ぶこと、大方ならず、四五人の者共寄ると集ると、茶飲ながらに口々の評定、

抔と寄ると触ると皆各自が口々に唱ふる程にて、放火の為に家屋舗を焼れ、苦境に沈みし者は、実に数知れず、上町は谷町、松屋町より舩場にて北浜、高麗橋筋、平野町天満辺に至るまで、家数三千三百八十九軒竃数一万二千五百七十八軒其他明家、土蔵、穴蔵、納屋等数ふるに遑あらず

慶長の昔し関東勢の為に太く荒されし以来、大坂の地に於て又たと無き騒動なりしとて、諸民は一方ならず憂ひ居たり、斯くも惨状を来せしも畢竟幕府役人が、久しき泰平の御代に慣れ、奢恣に耽り、武備を疎かにせしに源因せるなり、慎まざるべけんや

又た斯く一時猖獗を逞ふせし、賊魁大塩平八郎等が、一味徒党も今は残りなく召捕はれぬ、

因て其向々よりは市中に夫々お触示しありて、救助の儀を漏れなく達せられけるが、其時又た堀伊賀守への御沙汰に

とあり又玉造御定番への御達し書面は

右之趣き其節罷出候同心共へ可申聞候而して跡部山城守殿より玉造組与力中へ達せられ たる演説書は

とあり殊に骨折料として左の目録を添えられける

太平久さしく打続きたる頃ほひに、偶然(ふと)騒立し一揆の兵、殊に市中の町々も、多くは兵燹(いくさび)に罹り、焼払はれし惨状(ありさま)に、人々多く畏怖の念を抱かざる はなかりし、

其ころ人気余りに堅く引立しかば、其を和らぐるためにや誰家の女か、糸竹に合せて謡ひ囃せし歌あり、


「浮世の有様 巻四 文政十二年大塩の功業」その1「演舌書」
大塩焼け被害一覧
大塩の乱銃撃戦 発砲記録(幕府方)


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