Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.12.4訂正
2000.8.8

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「浮世の有様 巻四」

◇禁転載◇

文政十二年大塩の功業 その1

     
 
 









近年西御町奉行の組下に、弓削新右衛門〔頭註〕弓削新右衛門は、諸御用調役支配地方唐物取締定役、右御役兼帯して勤む。といへる与力の、邪威を振ひ下を苦しめ、頻に賄を貪り、罪なきも罪を得、財を掠め取られ、入牢して非命に死し、罪なくして遠流・追放せらるゝ者多く、別して唐物掛など、故もなきに多く召捕られ入牢して財を掠め取らるゝにぞ、

六七年前には道修町薬種屋仲間一統に申合せ、長崎にて御改めあり、役所より手板付きしを、御法通に取捌きぬるに、斯くては商も成難しとて、商売を止めて悉く鎖しぬる事あり。

其余種々の姦悪ありて、是が手先に使へる垣外といへるは、千日・天王寺・飛田・天満等にある非人頭にて、之を四ケ所と唱へ、捕者其外与力・同心の手先に使ひぬる事なるに、

其中にても飛田の清八・天満の吉五郎などいへる者、弓削に使はれて姦悪甚しく、此等が勢、町家の者共当り難く、金持てる町人などへ無心を申掛け、之を聞入るゝ事なければ、忽ち思寄らぬ辛き目に遇ひぬ。

又市中にも猿・犬などとて弓削へ入込み、あらゆる人々の害となるベき事を取拵へていへる中にも、新町にて八百屋新兵衛・土佐堀にて葉村屋喜八などいへるは、相応家督有身分にしてこの業をなし、両人とも非人清八・吉五郎等と兄弟分となり、この者共申合せ、己れ一人 人に内々にて金取りて、博奕を免して致させ、公儀へは今何処にて何某が家にて博奕うてる由を訴へ、外三人の者よりこれを召捕る。互に斯くの如くなりしかども、人之を知る事なく、斯くの如くにても、右の者共へ頼込める者多かりしとなり。斯様に互に申合せて、利を貪る事故、其者共銘々に利益多く、世に害有る事甚しかりしが、

 
 







東御奉行高井山城守殿組下の与力に、大塩平八郎〔頭註〕大塩平八郎は。諸御用調役目附・地方・盗賊方唐物取締定役、右兼帯。 と性質直にして少しく文武に心得あるものありて、八百屋新兵衛・葉村屋喜八、飛田の清八など召捕て、厳しくこれを責めしかば、弓削が悪事一々に相顕れぬるにぞ、

これを召して其罪を糺さるベきなれ共、其折節 西御奉行内藤隼人正殿御交代にて、文政十二丑の三月御発駕ありしにぞ、弓削も伏見迄之を送り奉りし故、帰り来りし夜、直に明朝早々急の御召なる由なり。

 





 





本人は斯かる程の事とも思はず、明朝出て之を申掠めむと思ひぬれ共、直に入牢の様子なれば、親類中打寄、八百屋・葉村屋召捕られ、此等よりして悪事明白に知れぬる上は、其罪遁れ難く、御仕置を蒙りては家名断絶に及び、親類中迄大に面目を失ふ事ゆへ、早く切腹すべしとてこれを取巻き、一統よりすゝめぬれども、腹をきりかねしかば、皆々打寄り、無理に其腹へ突立て、刀を引廻しこれを介錯し、是が若党も召捕られぬれば、白状によりて如何なる事に及ばむも計り難しとて、之をも直に其席に於て無理に腹切らせしとなり。

斯かる科人なれば取逃しては成り難く、若し延引に及びなば召捕来るべしとて、捕手勝手へ詰め、屋敷の四方を固めしとなり。

弓削一件に付ては種々の取沙汰ありしかども、余りに事多ければ之を略す。

 
 







斯くて清八・新兵衛など厳しく拷問にかけられしかば、悪事悉く白状に及びぬる中にも、七八年前の事なりしが、天王寺より巽に当り小堀口とて在所ありぬ。此所の寺へ盗賊入りて、住持・小僧・下男外より住持の妹とやらん折節止宿してありしに、右四人共殺害し、金銭を取りし事ありしが、其賊一向に知れざりしに、此清八が業なりしとかや。

斯様に盗賊方の手先に使ふ者の斯かる事など、年来知れざりしにて、弓削の悪しかりし事を思ひやるベし。

此者、非人の身にして前に云へる四ケ所の頭にて、家に巨万の金銀を積み、大小・馬具の類ひより茶器・衣服・家具等に至る迄家内の奢、之を譬ふるに物なく、大坂町中に別荘を構へ、所々に四五人の妾宅を設け、非人の身にして御奉行所に出づる節と雖も、半町計手前迄駕に乗り、手下七八人も召連れぬ。斯かる様なれば平日己が私用にて出づる節など、少しも土を踏む事なく、内には常に釜をかけ酒肉に飽き、時々与力・同心など、是に招れて饗応せられぬる事などありしとかや。こは加島屋勝助といへる人の、之を審に聞しとて予に語ぬ。

されども其中にて天下に類なき物は、羅紗にて拵へしぱつち四五足ありし由を聞けりといひぬるもをかしかりき。天下の役に連れる身にして、非人の家にて馳走せらるゝにて、何事も弓削が行状思ひやるベし。清八・新兵衛の両人は、千日に於て獄門に掛けられしが、葉村屋喜八は外に御吟味のある由にて、其後永く牢中にありしが牢死せしとなり。

 
 







八百屋新兵衛・清八など召捕られ、夫より直に、猿をなして、これ迄役筋へ入込みし者共、一人も残らず皆々召捕られて入牢せしが、是等は牢中の罪人共打寄り、何れも厳しく責め悩ませし上にて、帯にて是を縛り、牢の角に逆に括り付け、或は糞を食はせ髪を悉く引抜き、目玉をくり抜き、歯を抜き、手足の爪を抜きなどして、大方牢中にて殺されしが、偶々助かりて宿下げになりしも、病臥して床を離るゝ事能はず、追々に死失せて、助りしは至つて稀なりしといふ。

 
 





斯く猿などするは、揚屋・置屋・生洲・料理屋・風呂屋などに多くある事にて、斯様の者共大勢召捕られ、其家付立になる家毎の帳面御調ありし処、大坂中の寺院に遊女に馴染持たざるはなく、肴食はざるは一人もなく、鶏を殺させ、鰻・すつぽんの類に至るまで、何れも之を喰ふ事甚しく、この事委しく顕れしかども、猿狩の最中なれば、態と其儘捨置かれしに、

天満山吉五郎といへるは、如何なる事にや召捕らるゝ事なくてありしが、 此等を吟味する時は、一人も不埒なきものあらざれば、清八一人に其罪をおほせ、自分慎めるやう御憐愍の事なりと、専ら其節の風聞なりし。 是迄の如く不法の事なり難きにぞ、

 
 





調


清八といへるは、此者の兄にして先達て獄門となりし事故、何れも大塩平八郎の計らひなれば、いかにもして此人を亡(うしな)ひ、是迄の如く我儘働きたく思ひぬるにぞ、

北野村不動寺の隠居、同寺門前の側にて妾宅を構へ、妾が名前にて遊女三四人を抱へ、茶屋商売をなし、己も常に此家にあつて姦悪甚しく、斯かる悪僧なれば是迄も親しく交はりしといへり。

此僧を頼みて大塩を調伏せむと頼みぬるに、是が力には及び難く思ひしにや、浦江村正伝の僧を頼み、此坊主之を諾ひ歓喜天に祈りしが、此事露顕に及び、吉五郎を始め悉く召捕られ、同人が妻子・妾、不動寺の梵妻に至る迄残らず入牢す。

斯くて吉五郎を責問はれしに、此者兄清八と申合せ、公儀を騙り役人風をなし、讃岐・播磨等へ下り、博奕場にて金をゆすり、其外不法の悪事多く、これも千日に於て獄門に架けらる。此者兄弟三人なりしが、申合せ所々へ押入盗賊をなせしといふ。

今一人の兄といへるも、先年首刎ねられしとなり。

かくてこの跡付立となりしが、兄清八に異なる事なく、金銀財宝大限計り難く、其中に一つ臘色に塗つて、五重に重ね、大体薬箱の如くにして、下一重に底ありて、四重には底なく、内はす凡て銀を張り詰め、四重には底毎に銀にて簀を拵へ、蒸籠のごとくなりといふ。何とも分り難ければ、「此箱は何に用ひるぞ」と尋ありしに、「生洲より鰻の蒲焼を入て取寄せる箱にして、其鰻の何時までもさめざる様、下の箱には沸湯を入れて置く事なり」とぞ。是にて其傲り思ひ計るベし。

不動寺の隠居は牢死をなし、浦江の僧は如何申訳せし事にや、免されて寺に帰りしとなり。〔頭註〕浦江の坊主助かりし由、うはさありしがさにあらず。御仕置ありしといふ。さもあるべき事なり。

斯くて何かと其後も騒々しき事多かりしかども、御政道の正しきを市中一統に悦びぬる事なるに、辱くも貧人御救ひの事仰出さる。其御触にいふ。

 
 






          演舌書

    当表者、富庶繁華之土地にて、工商之者何成共所業、商売を出精骨折いたし候はゞ、渡世出来易き儀は他処と勝り候故、富人者論なく、下戸之家々も其利を利とし、其楽を楽み、父母を養、子孫を鞠(はぐくみ)、衣食之資に不自由無之哉に候得共、竃凡十万近くも有之、其内には老衰にて子も之なく、幼少にて親に相離れ候零丁・孤独の類、其余孫子多く自力に難養候得共、親類・縁族無之候に付、其身の困窮愁苦を告者なく(きカ)程の貧人有之間敷共難被決。若右体之貧人有之候はゞ、米穀諸色豊給の時節にても、其身・其家丈者実に飢餓之荒年も同事にて、誠可憐事共に候。不頼之工商老若、身持不行跡等より父祖之家業を失ひ、或は非分之巧事に心力を尽し、反(かへり)而流浪漂泊いたし刑戮を免居候者とは一向訳違、前書之貧人者不幸之良民に付、已来手当救方可有之候間、無屹度三郷町(々)相調、右体不幸之良民有之候はゞ、時々御役所へ可申立候。呉々貧苦に迫候共、不幸之良民に無之者は、篤と入念、混雑不致様取調可申儀、尤肝要候事。

      右文政十二丑十月廿四日、町々年寄宅へ翌廿五日九つ時、北組総会所へ年寄直に罷出候様、名前当之廻文到来に付、同日罷出候処、月番総年寄永瀬七郎左衛門殿より御演舌にて、東御奉行高井山城守様御下知を以、同組与力大塩平八郎様より、総年寄を以、無屹度町々取調、右貧人の有無、来月三日迄に可申上候様被仰渡候趣にて、右演舌書を以被申渡候事。以上斎藤町の控を借りて之を写す。

右の通仰出され候故、町毎にこれを取調ベぬるに、貧苦に迫り難渋する者限なしと雖も、不頼の輩のみにして、又偶に良民と覚しきが困苦に迫れるあれども、兄弟・伯父・従弟など有て、此等が不実なるもあり。又ありと雖も不恙にて救ひ難く、されども貧しき暮せるとも、便るベき親類あるは申出で難くて、大坂三郷の町内より申出でしは一人もなく、福島・下原・高津・新地などの端々の町々より、追々に召連れ出でしかば、夫々御糺の上、御救ひ下し置かる。

 
 





公儀より斯くの如くなし給へるにぞ、其町内にてもこれを捨置き難く、何れも合力をなしぬるといへり。其後も両度迄篤と調ベて申出よと、御沙汰ありしとなり。斯くの如くなる御仁政行はるゝ事故、一統太平を唱へ、大塩を神仏の如しとて有難がりき。尤斯くあるベき事なり。

〔頭書〕良民の貧に迫れる、所々より連れ出でしが七人の由、是もみな七十計りの老人にて、歩みて出づる事なり難く、駕にて召連れ出でしかば、 一人前に大低日々七分程に当てゝ、御助救ひ年に三度程に下さるゝ趣にて、其町家主等を心添遣すベき由仰渡されしにぞ、七人の者共、御奉行所に於て大に有難がり、歓び泣に泣き立てしとなり。さもあるベき事なり。十万計りの竃ありて、かかる繁華の土地なれども、不幸の良民といへるは、やう\/斯様の事にて、貧窮人限なしと雖も、皆々無頼の者共にて、己が心得悪敷処よりして、貧しく成行ける者共計りなり。されども斯かる御仁政にて、御調もある事故、悪徒等も自ら恐れ慎む様に成行く事、全く大塩の功と雖も、上に賢君なくして斯様に之を用うる事なくば、其功尽し難し。高井君よく其人を用ひ給へる事、賢き御奉行なればなり。

 
 








十二月五日切支丹の類族六人御仕置あり。両三年前より大塩氏に見顕はされて、斯く御仕置となりぬ。全く是も此人の功なり。切支丹一件、余り長ければ別記とす。

堺御奉行水野遠江守殿、御召に依つて出府有。何人にても堺の御奉行出府又は交代の間は、大坂より御支配なるに、此度是も大塩氏、彼の地にて姦悪ある与力伊東吉右衛門・戸田丈右衛門を押込め、これに立入り悪事工みぬる茶屋市兵衛、大坂八百屋新兵衛・葉村屋喜八等と同じ。 竝に同人別家両人を召捕入牢せしむ。御奉行には、出府せられし儘御転役にて、久世伊勢守殿御交代となる。茶屋市兵衛・別家両人は、未だ入牢にて家内悉く付立なるが、伊東は免され、戸田は隠居となりしとなり。是に付て戸田・伊東等の門に落首して張付しといふ。

 




 

    おまへ計りが隠居して、茶市はかわゆうないかいな。朝夕責めのたわ言にも、とださま呼んでと泣くはいなう。

    伊勢さまの御蔭でいとはぬけました、堀と山とがあんじられます。

      堀山何某といへるも、善からぬ事有るにやと思わる。此等の事は加茂弘作よりくわしく聞けり。
 
 





斯くて大坂の御政道、斯様に厳重に成しかば、京都にても狩野万五郎といへる与力追放せられ、其余役儀被召放されし者多く、伏見・南都にても、同様の事にて罪せられし人多かりしといふ。御町奉行高井山城守殿を頭に戴て、其指図を受る事とは雖も、実は大塩一人の計らひによる事にして、其風所々に移るやうに成行ぬるも、全く大塩が大功と云ベし。〔頭書〕桑原権九郎も何かよからぬ事ありとて押込られぬ。

扨又清八・吉五郎等が妻子残らず追放になりしが、素より非人とは雖、これまで多くの人を掠め悩まして、取集めたる金銀にて奢り暮せしに、木綿の袋に椀一つ・箸一膳づつ入れて、之を其首に掛させて、追払われしとなり。其余総て不埒なる者共多きにぞ、一統に大に恐れ慄しとなり。

元来非人共の身分にて、町家同様に二階造りに家を立て、悉く瓦葺にして土蔵銘々に持ちしかば、斯くては如何なる御咎めに遇ふも計り難しとて、未だ上より御沙汰なき内、何れも申合せ、蔵家を毀ち柱掘立にして、低き小家立となしぬるにぞ、左様あるベき事なりとて、御咎めもなくて止みぬ。

 
 






これ迄町へ出で不法の事のみなりしが、其後は左様の事もなくて、一統に町家の者共大に喜びぬる様になりぬ。別て道修町などにては、是迄毎度困窮せし事なりしに、筋なきに取上られし金銀、思掛なくして年を経て、御下げになりぬるも多かりしにぞ、全く大塩様の御蔭なりと、神の如くに尊みぬ。

予が心易き伏見屋嘉右衛門といへる者、昨日町内より御役所へ出づる事ありし故、其者に代りて態々大塩様を拝みに行しといへり。忠義を尽して仁政を施しぬれば、万人其沢を蒙り、恩に感ずる事 斯くの如し。

 







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