|
(二))
かは
詞『文政十三年十二月に天保元年と改つて、七月に高井山城守は古稀に
や
近ひ高齢を以て奉行職を罷められましたから、平八郎の落胆一方なら
ざか
ず、此れからと云ふ三十八の血気旺りに退隠して養子の格之助へ譲つ
しま
て終つて、自分は洗心洞と云ふ学問所に引籠つて専ら門弟を集めて陽
明学を教へて居る、所が天保四年から打続いての凶作、八年に至つて
は殆んど全国一般の大飢饉。
がふ み ち よこた うへ
節『餓孚道路に横はり、餓に泣く児の憐れさよ、泣くよりなげかるゝ、
母が身こそは死ぬべけれ、木の芽木の皮草の葉に、露の命をつなぎ
つゝ、骨と皮とに痩ほそる、此の世ながらの冥土のさま。
おまけ
詞『加之に二月からは霖雨の絶へ間がない、六七月となつて、大風が諸
所に起つて稲が少しも実りません、五十両の米は忽ち百何十両となつ
いよ/\
て、食物と云ふ食物は一足飛びに十五六倍の騰貴、窮民は愈々餓死す
るばかりでございます、高井山城守の後を受継で奉行となつた人は矢
部駿河守と云ふ人、此人も天晴賢明卓識山城守以上の明奉行で、平八
う ま
郎とは殊に意気が合つて、度々その邸に行つて救済の方法などを相談
して居りましたが。
節『天なるかな命なるか、杖とも頼み柱とも、思ふ相手の駿河守。
節『江戸表へ転任されたその後が跡部山城守良弼と云ふ人、これは又打
ひ と ま え
つて変つた冷淡な人物でございます、平八郎は前奉行からの関係上、
しば/\ じ
敷々跡部山城守を訪ねて、窮民救済の策を薦めるけれど、只だモウ自
ぶん
個の功名心にのみ駈られて居る跡部山城守は「ナニ与力風情の隠居が
奉行の職権に立ち入つて彼れ此れ申すとは僭越の次第だ」なんか云つ
とりあげ
てドウしても採用て呉れん、採用て呉れんと謂つてその儘引込んでも
居られん、また引き込むやうな平八郎ぢやない。
はし
節『一日怠れば一日の、万民塗炭の苦しみぢや、東に奔り北に往き、富
豪諸氏を説き廻る。
詞『その誠心誠意に動かされて、三井を初め鴻池、岩城の金満家が、義
侠的事業に賛同した、然るにイヨ/\決行の一段に至つて躊躇逡巡、
どうも決行する様子がない、そこで探つて見ると云ふと奉行所の権勢
に恐れを抱いて二の足を踏んで居る事が判つた。
|
東町奉行
高井山城守
のあとは。
正確には
曾根日向守
などを経て
跡部山城守
が天保7年
から
矢部駿河守
は天保7年
から西町奉行
「大坂城代・
大坂町奉行
一覧」
|