Я[大塩の乱 資料館]Я
2012.4.18

玄関へ

「大塩の乱関係論文集」目次


「大塩平八郎」
その4
芝 松南

『忠魂義胆 武道の誉』精華堂 1910 所収

◇禁転載◇

大塩平八郎(上)情けの光 恵みの露 (4)管理人註
   

        (二))                 かは 詞『文政十三年十二月に天保元年と改つて、七月に高井山城守は古稀に               近ひ高齢を以て奉行職を罷められましたから、平八郎の落胆一方なら                 ざか  ず、此れからと云ふ三十八の血気旺りに退隠して養子の格之助へ譲つ   しま  て終つて、自分は洗心洞と云ふ学問所に引籠つて専ら門弟を集めて陽  明学を教へて居る、所が天保四年から打続いての凶作、八年に至つて  は殆んど全国一般の大飢饉。   がふ  み ち  よこた     うへ 節『餓孚道路に横はり、餓に泣く児の憐れさよ、泣くよりなげかるゝ、  母が身こそは死ぬべけれ、木の芽木の皮草の葉に、露の命をつなぎ  つゝ、骨と皮とに痩ほそる、此の世ながらの冥土のさま。   おまけ 詞『加之に二月からは霖雨の絶へ間がない、六七月となつて、大風が諸  所に起つて稲が少しも実りません、五十両の米は忽ち百何十両となつ                            いよ/\  て、食物と云ふ食物は一足飛びに十五六倍の騰貴、窮民は愈々餓死す  るばかりでございます、高井山城守の後を受継で奉行となつた人は矢  部駿河守と云ふ人、此人も天晴賢明卓識山城守以上の明奉行で、平八          う ま  郎とは殊に意気が合つて、度々その邸に行つて救済の方法などを相談  して居りましたが。 節『天なるかな命なるか、杖とも頼み柱とも、思ふ相手の駿河守。 節『江戸表へ転任されたその後が跡部山城守良弼と云ふ人、これは又打           ひ と            ま え  つて変つた冷淡な人物でございます、平八郎は前奉行からの関係上、  しば/\                              敷々跡部山城守を訪ねて、窮民救済の策を薦めるけれど、只だモウ自  ぶん  個の功名心にのみ駈られて居る跡部山城守は「ナニ与力風情の隠居が  奉行の職権に立ち入つて彼れ此れ申すとは僭越の次第だ」なんか云つ        とりあげ  てドウしても採用て呉れん、採用て呉れんと謂つてその儘引込んでも  居られん、また引き込むやうな平八郎ぢやない。                         はし 節『一日怠れば一日の、万民塗炭の苦しみぢや、東に奔り北に往き、富  豪諸氏を説き廻る。 詞『その誠心誠意に動かされて、三井を初め鴻池、岩城の金満家が、義  侠的事業に賛同した、然るにイヨ/\決行の一段に至つて躊躇逡巡、  どうも決行する様子がない、そこで探つて見ると云ふと奉行所の権勢  に恐れを抱いて二の足を踏んで居る事が判つた。




























東町奉行
高井山城守
のあとは。
正確には
曾根日向守
などを経て
跡部山城守
が天保7年
から
矢部駿河守
は天保7年
から西町奉行
「大坂城代・
大坂町奉行
一覧


「大塩平八郎」目次/その3/その5
「大塩の乱関係論文集」目次

玄関へ