Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.7.6訂正
1999.10.20

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大塩の乱関係論文集目次


「大塩平八郎の久世広正等に対する告発
  −干鰯仲間株を中心として−」

その1

島野 三千穂

『大塩研究 第34号』1994.3 より転載

◇禁転載◇

*表については一部変更を加えています。(管理人)

 はじめに

 大塩平八郎(以下大塩と略称)は挙兵前日に、『大塩後素建議書』*1 (以下密書と略称)を老中に送り、その第四項で次の告発をした。

  一、久世広正*2 (以下久世と略称)は側用取次*3 の水野忠篤*4 と親類であったので、青年の身分で大坂町奉行に任命された。

二、(久世の)その家来が恨みを含んで捨訴した一件は落着した。

三、戸塚忠栄*5 (以下戸塚と略称)が有体に吟味していたら、その(久世の)家来金子敬之進*6(以下金子と略称)は不埒があったに相違ない。しかし戸塚は権家を恐れて乍略の吟味をしたので、金子は(無事で)勿論久世も無事に済んで長崎奉行に任命された。

四、皆、人々は、これを承認出来ない、汚いと嘆かないものはない、と述べて、大塩は付属資料として『内密風聞書』*7(以下『風聞書』と略称)を『密書』に添付した。

 扨、それでは、

(1) 恨みを含んで捨訴した久世のその家来とは、一体、誰か。いつどこで、何の目的で、如何にして、捨訴したのか。

(2) 戸塚が(権家を恐れて)乍略の吟味をしたとはどう言う事をさすのか。乍略でなかった吟味もあったのか。

(3) 『風聞書』の内容は何時、書かれたのか。大塩の与 力職引退以前か、以後か、それとも挙兵時、審理中で あつた事も書いてあるのか。

 以上を限られた史料にもとづいて考えてみる。

【挿図 省略】

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【注記】

*1 仲田正之『大塩平八郎建議書』平成二年 四一〜九頁

*2 久世広正 堺奉行  (天保元年二月〜二年一〇月)
       大坂町奉行(天保二年一〇月〜四年六月)
       長崎奉行 (天保四年六月〜一〇年四月)
*3 側衆より三人ほど選任され、御座所と御用部屋の間を 取り次ぐ。八代将軍吉宗のときに始まる『日本国語大辞典6』小学館

*4 水野忠篤 御側衆中(文政四年五月〜天保一二年四月)
 (イ) 側用取次の水野美濃守忠篤は、伯母の御梅が家斉青年期の愛妾で、伯母が臨終にさいし嘆願して家斉に取りたててもらった人物だった。青木美智雄『大系日本の歴史 11』「近代の予兆」一二〇頁 小学館
 (ロ) いわゆる大御所政治の時代に権勢をふるった水野美濃守忠篤は側妾お梅の方の甥であった。村井益男著『江戸城』一六四頁 昭和六〇年刊行 中央公論社
 (ハ) 大坂西町奉行(文化一〇年一二月〜一二年八月)因幡守と称した時大坂在任。

*5 大坂東町奉行(天保三年六月〜五年七月)

*6 金子敬之進
 (イ)久世広正の家老『浪華御役録』天保三年
 (ロ)『大塩平八郎建議書』「目録」五〇頁。金子敬右衛門とあるのは江川代官所における誤写か。
 (ハ)『藤岡屋日記』第一巻 二七六頁 三一書房 「敬之進は皆美濃守内緒の者なれば何哉隠悪之事有之よし」

*7 前掲『大塩平八郎建議書』 「一七三〜一七八頁断定はさしひかえるが『内密風聞書』は長吏→同心→与力→大坂町奉行の上申文書でなかったか(岡本良一・ 内田九州男編 清文堂史料叢書第29『悲田院文書』 一三三〜一三五頁参照)。

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第一章 干鰯(ほしか)

 干鰯というのは、油を絞った鰯・鰊を乾燥させた肥料の事で、油粕とともに用いられた金肥であった。即効性があり、江戸中期になって綿作のために干鰯肥料が普及するようになると大坂の永代浜は全国で最大の干鰯肥料市場となった。『雑喉場の生魚と靱の塩干魚商達は株仲間を結成していた。しかし、干鰯商のみは古くから講組織を持続して仲間の人数の多さと干鰯取扱量の大きさにかかわらず株仲間を結成しなかった。』*8

 ところが、文政拾三年八月干鰯仲間株結成の出願をした二人の大坂の町人がいた。

 

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【注記】

*8 近江晴子『大阪靱・干鰯商の記録』三頁 協和印刷

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第二章 江戸勘定奉行への干鰯仲間株等出願

 第一節 吹上御庭と薬園御用干鰯納入願い

 文政十三年三月おかげ参りが阿波からはじまった。七月には、京都で大地震があった。同月、大塩は与力職を引退した。八月十八日には、病気のため、大坂東町奉行高井山城守は、大坂を去った*9。丁度その八月、大坂の町人鱗形屋治郎左衛門と樫屋卯右衛門は大坂町奉行(東西不明)の添翰*10 と京都公家勧修寺家来香川監物(以下香川と略称)の依頼状をたずさえて江戸へ出立した。

 二人の町人はまず、出自が御庭番の家筋であった勘定奉行の村垣定行*11(以下村垣と略称)に面会してこうきりだした。

 『乍恐江戸表吹上御庭并御薬園御用肥干鰯差入ノ義奉願』*12

とあるによって知られる如く(大坂町奉行の添翰があるにしても)大胆にも干鰯を江戸城内に肥料として、納入したいと出願した。一方、二人は内々で当時、『三佞人』(ヘつらいもの)の一人と呼ばれた水野美濃守、の家来山口久四郎に、香川の依頼状を提出して同じ依頼をした。しかし山口は此の事を聞いて厳重の示論(申諭し)をしたらしい。又、この出願は(理由不明であるが)村垣からも却下された。

 第二節 干鰯仲間株取立出願

 次の村垣宛、出願は、

 『干鰯仲間株取極ノ儀願上、御冥加銀御上納仕度心願……(以下略)』*12 とあるによって、知られる如く、干鰯仲間株を結成し、株主を募り、その取締になりたい。その代わり、売上に応じて、その冥加銀を幕府に、十二貫九百目、納めると言うのだ。この株仲間運営の仕法は明確に分かっている。『風聞書』にも記載ある。だから後注*13に回して本論を急ごう。

 結局、本件の出願は勘定奉行では反対ではない。しかし(おなじ直轄領)の大坂で再度出願するようにと村垣の裁断が下った。江戸での出願は結果としては失敗であった。

 二人の町人は路用銀を香川より借りいれていた。借金だけが残った。(徳用銀も香川に配分出来ない)

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【注記】

*9 「浪速奇観」四七一頁

*10 江戸時代、百姓、町人が提出する訴状に添付された町村役人の承諾書。当時、この承諾書のない訴えは直訴(越訴)とみなされ、受理されなかった。添状。『日本国語大辞典6』小学館

*11 村垣定行 勘定奉行(文化元年九月−天保三年三月)勝手方勘定奉行。十五年間も幕府財政を担当した。深井雅海『徳川林政史料紀要S54」所載「江戸幕府御庭番と幕政」

*12 大阪市立中央図書館市史編集室「大阪編年史 第十七巻』一三四〜九頁所載「肥物商組合一班 二の上 株」昭和四九年三月刊行

*13 干鰯仲間株取立出願前掲『肥物商組合一班』より出願者の要旨のみ抜粋すると左記となろう。

 尚、干鰯に関しては大塩と交遊があったとされる農学者、大歳永常(一七七六‐?)と関連して、大塩を再検討する必要があるかもしれない。

  (ハ)干鰯仲間株設立資金繰表                 
収入の部
支出の部
(肥干鰯類着荷額 4000貫×0.95%)
 
積銀38貫−0
(銀300枚×43匁×1年)
冥加銀
12貫−900目

浜〃漁場へ仕入銀貸付利息
(仕入銀250貫目×0.5%×12ケ月)

15貫−0目

取締諸入用雑費

6貫−500目

臨時入用貸継利息、漁具仕入貸付

3貫−600目
38貫−038貫−0

銀1枚は銀の重さ43匁にあたる。『日本国語大辞典l』小学館852頁。
上表は『干鰯商組合一班』(にノ上 株)(137〜8頁)より筆者が算出したものである。『内密風聞書』(『大塩平八郎建議書」仲田正之編校註176〜7頁)とも下記2点で致するので史料は同一である事は明白。
 

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第三章 大坂西町奉行に対する干鰯仲間株再出願

 文政十三年は十二月十日改元されて天保元年となった。(天保元年は廿日間)

 翌天保二年三月、大坂安治川の川浚がはじまった。大塩は文政十三年七月与力職をすでに引退していた。   

       大潮が引くよりはやき川浚上は金持ち下は砂持
                   よミ人しらず*14
という落書が奉行所にはりだされて、大塩の引退を惜しんだらしい。その頃久世は天保二年十月十日、堺奉行より大坂西町奉行に転出して来た。明けて天保三年正月(?)−三月、既述の二人の町人は干鰯仲間株の取立を新任の大坂町奉行久世に再願した。しかし、何度も却下された上、西町奉行所の掛り役人がいうには、干鰯仲間が連印して出願したら認可すると言う返事であった。そこで、二人が仲間商に何度も掛け合ったところすでに同じ出願を安永年度(十八世紀後半)にしたものがおり、その時も反対でとりやめになったという事であった。そこで二人は京都公家勧修寺家来香川に相談したところ、辻村仁三郎なる尾州浪人が西町奉行所の久世の家来伊東清十郎(以下伊東と略称)と懇意であるので、裏から手を回し、久世の家老金子に働きかけた(すでに江戸の水野美濃守家来山口久四郎からも頼ませるよう交渉していたが、山口からは示論されていたらしい)*15。しかし結局、天保三年九月、干鰯仲間は右出願に左担するものは組合を除名するとまで取り決めて、断固この出願に反対した*12。その為、この計画は挫折、徒労に終わった。その頃天保三年十月十三日戸塚は十人目付より大坂東町奉行として、赴任してきた。

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【注記】

*12 大阪市立中央図書館市史編集室「大阪編年史 第十七巻』一三四〜九頁所載「肥物商組合一班 二の上 株」昭和四九年三月刊行

*14 前掲『浪速奇観』四八三頁

*15 前掲『浪速奇観』五六三頁


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「大塩平八郎の久世広正等に対する告発」その2

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