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2000.6.11

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大塩の乱関係論文集目次


「一心寺事件の知恩院ヘの飛び火と岱真上人」

その2

島野 三千穂

『大塩研究 第31号』1992.3 より転載

◇禁転載◇


 

第二章 知恩院における一心寺事件

 第一節 聴誉と岱真の上洛と知恩院入院

 鎌倉光明寺の聴誉は(香衣騒動調停の功によるのか)天保三年三月廿六日、上洛して知恩院に入院、天保四年四月十四日、知恩院大僧正に任官した *34 。『増上寺の岱真も、師の香衣騒動による自尽に、深く感ずる所あり、天保三年三月、増上寺の学席を辞して、京都に遊んだ。天保六年四月、知恩院大僧正の強招を断り切れず、知恩院内役常侍の職についた』*35 増上寺の香衣騒動がきっかけとなって、岱真は同じく上洛して、知恩院に入院した。

 第二節 一心寺事件の知恩院への飛び火

 岱真は知恩院では二つの立場で、この地の浄上宗教団の指導と布教活動を行っていたと推定する。一つは関東十八檀林首座増上寺の山内寮主としての宗侶養成・宗学興隆、もう一つは知恩院寮坊主役としての宗門行政であったろう *36 。ところが天保六−七年のある日、突然、摂州天王寺村一心寺事件に巻き込まれた。知恩院大僧正聴誉とは増上寺の頃より懇意であったらしく *37 聴誉と結束して将末を嘱望されていたと思われる。しかし岱真は幕府のお咎めを受け、後述するが、天保七年十二月、中追放となってしまうのである。

《発端》摂州一心寺の僧、竜誉から次の依頼が来た。一心寺四十九世昇誉(天保五年十月四日遷化)が東照大権現の神像(以下神像と略す)の掛物を什物として寺内に遺した。それには天海僧正の讃もある。それを大僧正聴誉に開眼してもらって一心寺の什宝である事を証した開眼証状を聴誉より一心寺竜誉に発給して貰いたいと云う依頼であった。岱真は一心寺竜誉の言葉を聴誉にそのまま伝達した *38

《良正院愍》その内、知恩院塔頭良正院愍誉が、葵の御紋を裁地(きれじ)に用いて、表装した神像を岱真のもとに届けたらしい(愍誉は当初その神像の掛物を見た時、その神像が出所不明で、天海僧正の讃も怪しいのに気付かず、竜誉が一心寺什物であると云うのを本当と思って、葵の御紋についてはお触も出ていたのに、同じ塔頭光源(玄)院の下男源次郎にその葵の御紋の裁地を使って、表装仕直しを命じた)*39

《光源(玄)院下男源次郎》源次郎は良正院愍誉が表装仕直しを命じた神像は怪しいと気付かなくとも、葵の御紋を付けることはお触れもあるのに、愍誉の云う通り裁地を市兵衛より買入れ表装仕直してしまった *40

《市兵衛》市兵衛(市郎兵衛?)は葵の御紋はお触れもあるのに忘れてしまい、源次郎に葵の御紋の裁地を売り渡した*41

《岱真》岱真は神像が元来出所不明で、写方も拙劣で、天海僧正の讃も怪しいのに気付かず、一心寺竜誉の云う通り、聴誉に話をして、聴誉が開眼したので、この神像が一心寺の什宝である事を証した開眼証状を(岱真が聴誉の代筆で)、一心寺竜誉に渡した。

 この神像と開眼証状とが、知恩院岱真→一心寺竜誉→大坂東町奉行所与力→大久保讃岐守→寺社奉行の経路で、東照宮造営の願書と共に移動した。(一心寺事件相関図参照)

《知恩院役者仁誉・体誉・沢典・淵誉・融誉》とうとう一心寺事件は京都知恩院に飛び火した。大坂町奉行所→大坂役寺(知随)→京都知恩院役者五名の経路で次の質問が知恩院寮坊主役岱真のところに来た。知恩院大僧正はどういう理由で、(出所不明で写し方も拙劣な、天梅僧正の讃も疑わしい神像に)開眼の証状を発給したのか *43 。半ば詰間であった。

《岱真》岱真はこれを開いて驚愕したに違いない。自分の粗忽より、大僧正聴誉が重過失(不念)になっては一大事という配慮より、自分の発意で、五人に同意させて、有神像は享保度の一心寺什物帳に記載があると返事することにした *44

《五人》右五人は岱真の発意の通り大坂役寺知随にも同様の返事をした *45

《岱真》岱真はこの享保度一心寺什物帳を知恩院祐筆岩室将曹(死亡)に、手跡墨色を似よせて改竄するように指示した *46

《岩室将曹》岩室将曹は岱真の指示通り一心寺什物帳を改竄して岱真に渡した *47

《岱真》岱真は、そのため大坂町奉行所に召喚された。その都度、(一心寺什物帳は改竄したにも拘わらず)それを享保度の写しか本紙であると申し立て、その旨を書面でも提出した *48 。以上の事がすべて、寺社奉行、大坂町奉行所が見破るところとなりすべて露顕してしまった。

 さて、この事件の刑罰執行状況を御仕置例類集等の史料によりまとめると、

(一)身分上では僧侶の占める割合(67%)が高く、憎侶では一心寺竜誉(死罪)の次に重科に処せられたのが岱真(中追放)であった。

(二)知恩院大僧正聴誉に対する、判快告知は江戸増上寺方丈宛で、増上寺が受書を提出した *49 。この事は、幕府が増上寺を檀林の筆頭として(総本山知恩院をおさえて)、実力は本宗第一とみなしていた *50 という証左にはなりはしないか。又、甲子夜話 *51 の記述は聴誉のところが欠落しており、記者松浦静山の大僧正聴誉への配慮があったともとれなくはない。

(三)元大坂東町奉行の大久保讃岐守 *52 に対する判決告知は、

 (四) 大坂東組与力では大西与五郎(大塩の伯父)が構なしであった。定説となっている「多数の東組与力の江戸召喚」は確認出来なかった。尚大西与五郎は天保三年の『浪華御役録』によると、遠国役、寺社役、極印役、唐物取締定役を兼帯していた。

一心寺事件相関図 (略)


    一心寺事件刑罰執行統計的数字

 
刑 種 刑 名 身   分 小計総 計
僧侶 士庶人その他
死 刑 死 罪 1 1 1
(4%)
追放刑中追放 1 1 6
(29%)
江戸十里四方追放 5 5
 そ

 の

 他

隠 居 1 1 9
(43%)
逼 塞 2 2
押 込 1
暇差出
 1 2
差控御役御免 1
過料銭 1 1
不 明 1 1 2
(小    計)10 3 2 11616
 構 な し 4 1  5 5
(24%)
 合  計14
(67%)
 4
(19%)
 2
(10%)
 1
(4%)
2121
 

    一心寺事件の刑罰執行表

名 前 役職  刑 罰   
 備  考
(A)伺(B)評議(C)再評議
竜誉一心寺獄 門 死 罪 甲子夜話3編(死罪)、事事談(死罪)、「御仕置例類集43」(死罪)(江戸召喚)
聴誉知恩院大僧正急度叱り 五十日逼塞 隠 居 御仕置例類集43(隠居)、岱真上人伝(退職)、増上寺方丈へ申渡
岱真増上寺山内寮主
知恩院寮坊主役
軽追放中追放 甲子夜話3編(中追放)岱真上人伝(三都追放)、御仕置例類集43(中追放)
仁誉 知恩院役者
光徳寺
江戸払江戸十里四方追放御仕置例類集43(江戸十里四方追放)、甲子夜話3編(江戸十里四方追放)
体誉 知恩院役者 見性寺江戸払江戸十里四方追放  〃
沢典知恩院役者
上善寺
江戸払江戸十里四方追放  〃
淵誉知恩院役者
超勝寺
江戸払江戸十里四方追放   〃
融誉知恩院役者
上徳寺
江戸払江戸十里四方追放   〃
岩室将曹知恩院祐筆  ? 甲子夜話3編(死亡)、御仕置例類集43(死亡)
知随大坂、隆専寺三十日逼塞 三十日逼塞 甲子夜話3編(逼塞)、御仕置例類集43(三十日逼塞)
愍誉知恩院塔頭、
良正院
三十日逼塞五十日逼塞 御仕置例類集49(三十日逼塞)、甲子夜話3編(逼塞)
厳栄見安寺(?) 構なし 甲子夜話3編
観随 西性寺構なし  〃
玄察(真寮?) 九品寺構なし  〃
霊宅 光伝寺(?) 構なし  〃
源次郎知恩院光玄寺塔頭下男 五十日押込三十日押込御仕置例類集49(三十日押込)、甲子夜話3編(押込)
市兵衛(市郎兵衛)家持過料銭
五貫文
過料銭
三貫文
御仕置例類集15(過料銭三貫文)、甲子夜話3編(過料三貫文)
大久保讃岐守大坂東町奉行御役御免差控  ? 事事録(若年寄判決告知)
藤方宗五郎讃岐守家来百日押込 百日押込甲子夜話3編(武家奉公構、暇差出)、御仕置例類集43(百日押込)
大西与五郎 大坂東町奉行与力 構なし 大塩平八郎一件書留(一〇五頁)、四月中江戸召喚、十二月中構なし、十二月廿一日帰坂
由井弥三太郎大坂東町奉行与力 ? 甲子夜話3編

 (A)〜(C)の刑罰の論議決定過程区分は「御仕置例類集」石井良助『まえがき』より 作成。

第三章 京都知思院における一心寺事件のその後

 第一節 聴誉

 前章で述べた如く岱真の聴誉に累を及ぼさないと云う配慮は何の功も奏さなかった。かえって、聴誉は次のごとき責任を問われた *55 。(一)末寺の一心寺に神像之什物があるという事を知らなかったはずはない。(二)たとえはじめて知っても速に伝来の由緒などを調べその筋に屈けるべきであった。(三)神像をおろそかに考えて開眼の証状を一心寺に発給した。聴誉は天保七年十二月十二日辞山し、同十八日新善光寺に隠棲した。隠棲すること十三年、嘉永三年四月十三日寂した。墓は知恩院山内勢至堂の墓地にある *56

 第二節 岱真

 岱真は(文化十二−文政二年頃の増上寺では *57 )大きな期待と情熱に燃えていたに違いない。というのは増上寺といえば、浄上宗十八檀林の要(かなめ)であり、浄土宗の僧侶養成・宗学興隆の場 *58 (現在の仏教大学のようなもの)であった。おそらく一人前の僧侶になるため檀林に在籍し、勉学にいそしんだと推定される。しかし文政末年に岱真の眼に映った教団の姿は期待した事とは全くかけはなれた政争の巷と化していたのではなかろうか。大衆(学問僧)と坊中(役僧)の紛争は激甚であったらしい *59 。そのため、既述の香衣騒動で師を失ったのをきっかけとして、岱真は上洛した *60 。しかし今度は知恩院で一心寺事件に連座するとは岱真の夢想だにしなかった事でなかろうか。

 (イ)尾州知多郡善導寺隠棲時代

 岱真は中追放(三都追放)となって、善導寺に隠棲すること七年。その間、余暇をもって、仏典の講義、訪客の応接、子弟の教育につとめ、道俗の帰仰すこぶる厚かったという *61

 (ロ)江州草津覚善寺隠棲時代

 天保十四年四月、岱真は居を覚善寺に移すや京師の学徒がよろこぴ迎えた。寺舎のせまいのを感じて新に一宇を増築し、ここでも子弟の教育にいそしんだ。弘化三五月十五日に寂した *62 。覚善寺では中興の祖として、記念塔が明治年間に建立された *63 。(御住職談)覚善寺では、貫誉上人 *64 と申し上げて、筆者が訪れた時にも供花があった。記念塔右側面に辞世の歌とおぼしく、                           

 終るに当って駄文にかえて『岱真上人伝 *65 』を、そのまま引用して、締め括りとしよう。

 「同年五月十五日寂を示す。時に歳五十二。師、華頂 *66 門主の殊遇を蒙ること終始変ぜず。殊に門主殿下 *67 、師が官譴の身なるを憐み、之が回光に尊慮を回し給ひしも、惜哉官許の下りしは、没後七日なりと云う……」

 

【写真2葉】 省略

                                       

むすびにかえて

 各章ごとに、それなりの結論を述べたので、ここではくり返さない。ただ小論では、知恩院への一心寺事件の飛び火に焦点を絞って考察した結果、触れる事が出来なかった(死罪に処せられた)一心寺竜誉について、若干、判明したことを書き添えて置きたい。

(一) 当時、江戸と大坂京都の間を往来して、三都に詳しかった大御番隔年勤役の旗本の日記「事々録 *68」によれば、

 

 によってわかる如く「竜誉と大久保讃岐守は幼若より懇意であった。それ故に竜誉の願書を受理し東照宮造営計画を助けようとした。」とある。これまでの定説の「与力を抱き込んだ」と齟齬している事を、指摘しておこう。

 (二)「一心寺誌」等をひもとく限りでは、第四十九世昇誉の遷化と第五十世真阿の晋山式(一山の住職となる儀式に期間を特定出来ないのを残念に思うが、大体(天保五〜−弘化十三年間位の空白期間がある *69。寺徳になると考えて、寺内茶臼山に東照宮造営の願書を出して罪せられた竜誉こそ、本当は一心寺五十世となるべき人であったと憶断して許されるであろうか。

                          

 一心寺裏件関係三都浄土宗寺院略年表

 
年号・干支江戸・増上寺 京都・知恩院 大坂・一心寺 その他
文政10丁亥3月 (後に一心寺事件で罪せられた)岱真、華頂門主の侍講となる。
文政12己丑2月9日 香衣騒動。
12月27日 香衣騒動で岱真の師袋誉典常上人自尽。
2月 増上寺、大師尊像供養法要のとき、大衆、坊中と席次を争う。12月10日 大坂、僧侶の堕落を戒める触流し。
文政13庚寅正月 光明寺聴誉、増上寺の紛争(香衣騒動)を調停。
5月10日 幕府、坊中の香衣被着を停止。
2月 一心寺破戒僧事件勃発(文政12〜13)。
4月 知恩院破戒僧事件勃発?(文政12〜13)
天保2辛卯3月6日 昇誉住職となる。
天保3壬辰3月 岱真、増上寺の学席を辞す(師袋典の自尽のため)。 3月26日 聴誉、鎌倉光明寺より、入山。 10月 昇誉、一心寺難渋につき口上書を奉行所へ提出。
天保4癸巳4月14日 聴誉、大僧正に任官。
天保5甲午10月4日 昇誉遷化。10月23日 大久保讃岐守東町奉行として来坂。
天保6乙未4月 岱真、内役常侍の職につく。11月(?) 賊面灸治。
天保7丙申寺社奉行、聴誉の退院を申渡、増上寺方丈、受書を提出。 12月12日 聴誉大僧正、辞山して、
12月18日 新善光寺に隠棲。
12月 岱真、三都追放の身となり尾州知多郡緒川村善導寺に隠棲。
2月20日 大久保讃岐守大坂出立。
3月8日 西丸留守居に革職。
4月中  大西与五郎江戸より召喚。
4月24日 跡部良弼大坂東町奉行となる。
5月13日 大塩、対客を断。
5月29日 大塩、文武共稽古を休止、謹慎。
7月27日 跡部良弼、大坂着。
12月4日 藤方宗之進、寺社奉行より罪状申渡。
12月中  大西与五郎、構なしを申渡される。
12月21日 大西与五郎、帰坂。
天保14癸卯 岱真江州草津覚善寺へ。
弘化3丙午5月15日 岱真、寂。真阿、晋山式?
喜永3庚戌4月17日聴誉、寂。


 【註】
*4  小論では限定出版の浄土宗の寺史であった為か、全く研究者の注目を引かなかった、左の著書を紹介する。「一心寺誌」(非売品)前田穂瑞一心寺刊。昭和十四年十月 三十七−八頁。前田は「浄土宗全書十八」野沢俊冏 浄土宗典刊行会編纂大正二年八月、一一三−四頁に記載の『岱真上人伝』に一心寺事件の記録の断片があるのに着目して十三行であるが哀史一心寺を叙した。従つて、小論は前田の「一心寺誌」と『岱真上人伝』の学恩を蒙っている。

*5  「御仕置例類集 天保類集」。
                 
(A)拾五之帳第十二冊一○○頁。
(B)四拾三之帳第十五冊一○○−三頁。
(C)四十九之帳第十五冊四四三−六頁。
(D)五十一之帳第十五冊五四六頁。
仕置評議の分類 一心寺事件関係者
15後触并申渡問うを背又は忘却いたし候類 (市兵衛?)
市郎兵衛
43巧事取拵之類 竜誉、岱真、仁誉、体誉、沢典、淵誉、融誉
49捨置間敷儀等閑又は心得方麁(そ)略之類 知隨、愍誉、源次郎、聴誉
51不筋の取計いたし候類 藤方宗之進

 『評定所における仕置の評議を分類編集したもので、形式的には判決そのものではないが、実質的には判決と称してさしつかえない。』まえがき(二頁)。
  編者 石井良助 名著出版 昭和四十八年。

*7  岱眞。
  生涯と人となり
  岱真は上人名を袋(マゝ)真聴蓮社貫誉伝阿聞慶という。次の略年語は『袋(マゝ)真上人伝』によって作成したものである。

   岱真略年譜  
年  次 年齢 事        項
寛政6年 名古屋藩邸に生まれる。通称慶之助  平復又茂水。(尾州藩士城(マゝ)牧右衛門の長子)世々藩の槍術指南役。
文化9年 19 家督を次弟に譲る。菩提寺の相応寺皆誉聞隆上人について出家。聞慶と 改める。
文化12年 22 増上寺南中谷蔡花楼で宗学の研鑽につとめる。
文化14年 24 教誉大僧正について宗戒両脉を稟承する。前袋誉典常上人の弟子となり名を岱眞と改める。
文政2年 26 京師に遊ぶ。祖廟に詣でる。洛西嵯峨立道上人の門に入る。
文政6年 30 南都北嶺の知識を訪い五山十刹の禅門をたたく。
文政9年 33増上寺に帰錫し葵花楼を相続し学寮主 となり、大衆の請により講筵をしく。
文政10年 34 華頂門主の侍講となる。
文政12年12月 36師袋誉典常上人蔡花楼浄失に自尽する。
天保3年 39増上寺の学席を辞す。
天保6年 42知恩寺聴誉大僧正の強招辞する事出来ず内役常侍の職につ く。
天保7年12月 43大坂一心寺の事にかんし公障に触れ(大僧正、職を退き)、そのため三都追放の身となる。このため、尾州知多郡緒川村善導寺に隠棲。仏典の講説訪客の応接、子弟の共同に努める。道俗の帰仰頗厚い。
天保14年4月 50 江州草津覚善寺にうつる。京師の学徒歓び迎え教えを乞うもの日々に加わり寺舎の狭隘を感じ一宇を増築。
弘化3年5月 52 寂す。一心寺事件の赦免の官許が下ったのは、没後七日という。

*8 「一心寺風雲覚え書き」一心寺貫首 高口恭行 昭和五十七年十一月 一○七〜八頁。大阪市天王寺区逢坂上之町。坂上山高丘院。

*23 「知恩院史」昭和十二 一○八六頁。

*24 「浄土宗大事典4」浄土宗大事典刊行会 昭和五十七年一月 六四頁。

*27 『岱真上人伝」「浄土宗全書18」野沢俊冏 浄土宗刊行会編纂 大正二年八月 一一三−四頁。

*30 「近世浄土宗の信仰と教化」長谷川匡俊 淡水社 八八年 二九頁 浄土宗檀林に課せられた寺院機能の問題として、@宗門行政、A宗侶養成・宗学興隆、B徳川将軍家護持の三点をあげている。

*34 註 *23に同じ。四○○頁。

*35 註 *27に同じ。

*36 註 *30に同じ。二九頁。 *37 註 *27に同じ。

*38 註 *5(B)に同じ。

*39 註 *5(C)に同じ。猶、葵御紋付之品については御触は何度も流されている。「牧民金鑑下巻」荒井顕道 刀江書院 昭和四十四 八○七−一二頁。

*40 註 *5(C)に同じ。

*41 註 *5(A)に同じ。 *42 註 *5(B)に同じ。

*43 註 *5(B)に同じ。

*44 註 *5(B)に同じ。

*45 註 *5(B)に同じ。

*46 註 *5(B)に同じ。

*47 註 *5(B)に同じ。

*48 註 *5(B)に同じ。什物帳の移動経路は不分明。

*49 註 *5(C)に同じ。

*50 註 *24に同じ。四八三頁。

*51 「甲子夜話三篇5」松浦静山 東洋文庫 八三年 一三○〜三頁。

*52「旧幕府」残花戸川安宅編 原書房 八七頁。    『藤原氏本国三河 家紋上藤丸内大文字 千石小川町表猿楽町 大久保讃岐守』    判決告知の時は西丸留守居。

*53 「未刊随筆百種第三巻」三田村鳶魚編『事々録』中央公論 昭和五二 二四九−二五○頁。

*54 「日本史総覧近世一」新人物往来社 三四頁 豊後守は本多助賢。

*55 註 *5(C)に同じ。

*56 註 *23に同じ。四○○−一頁。

*57 註 *27に同じ。

*58 註 *30に同じ。二八−九頁。

*59 註 *23に同じ。一○八七頁。

*60 証(27)に同じ。

*61 註(〃)に同じ。

*62 註(〃)に同じ。 

*63 覚善寺の古文書は大正大学に寄贈されたらしい。(御住職談)

*64 註 *7に同じ。

*65 註 *7に同じ。

*66 『華頂山』とは総本山知恩院の山号。「浄土宗大事典」二一七頁。

*67 『門主殿下』を「一心寺誌」前田穂瑞 三八頁では『門主猊下』と書きあらためられている。

*68 註 *53に同じ。

*69 註 *4、*8 に同じ。


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「一心寺事件の知恩院ヘの飛び火と岱真上人」その1

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