Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.8.13訂正
2002.1.8

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大塩の乱関係論文集目次


『維新革命前夜物語(抄)』
その1

白柳秀湖 (1884-1950)
千倉書房 1934 所収

◇禁転載◇


第十二章 水野忠成インフレーションの巻

一一三
 金相場の下落に苦み南鐐の
  品質引下げを訴願した両替屋

 都市ブルヂヨアのわきかへるやうな好景気と、武士百姓及び勤労無産者の眉に火のつくやうな窮迫とが正面衝突をした時には、必ずその背後に幕府のインフレ政策があつた。元禄、宝永の景気もそれであつた。明和、天明の景気もそれであつた。文化、文政の景気ももちろんそれであつた。

 元禄、宝永度の貨幣政策、明和、天明の貨幣政策に関しては、すでにそのくだりに於いてくはしくこれを述べて置いた。こゝには例によつて文化、文政のインフレ景気を捲(まき)起した水 野忠成(ただしげ)の貨幣政策について説くところがなければならぬ。

 松平定信が引退するのをまつて居たやうにして、大奥にも、市中にも淫蕩奢靡(しやび)の風が起つて来たといふことをいひかへると、幕府は松平定信の引退するのを待ち構へて、平価の切下げによるインフレ政策に着手したといふことに当るのだ。

 五代綱吉の時、勘定奉行荻原重秀が金銀を改鋳してその出目(でめ)を貪ることにより、元禄、宝永度のインフレ景気を煽揚した後、六代から八代にかけて新井白石が、その整理に任じ、品質形量ともに大体これを慶長の古制に復することが出来たけれども、その為、俄に通貨の数を減じ米価の底しれぬ低落を来して武士階級を苦しめた。これが八代将軍吉宗後半期の出来事であつた。この時弊を匡救(きやうきう)せんが為に、荻生徂徠が登場して、銭価と米価との関係に著眼し、銭の流通高を増して、米価の引上げに資すると共に、幾分金銀の品質を粗にして物価の調節をはかつた。さうして物価と貨幣との関係がどうやら平衡を保つことが出来た。

 田沼意次は金銀貨の品質、量目には変更を加へず、別に南鐐(なんれう)(二朱銀)を発行して、従来秤量貨幣であつた銀を、金貨と同じ造形貨幣に改めた。これはわが国の貨幣制度に対すする一 つの貢献であつて決して批難すべきものではなかつたが、彼は一方でさかんに悪銭を鋳造し、且つその数量を多くして物価を際限なく騰貴させた。その結果として天明の大飢饉とそれに伴う大騒擾とが来た。

 天明大飢饉の後を善くするために松平越中守定信が田沼に代つて登場し、思ひ切つた徳政令ときびしい節約令によつて改革に着手したが、その政策はほんの緒についたばかりで、定信は政治の舞台を逐(お)はれた。定信の政策の中で、都市ブルヂヨアどもに激しい衝撃を与へたものは、江戸蔵前の札差に対する徳政令、すなわち旧債の棄捐令(きえんれい)であつたに相違ない。それについでは、重箱の隅々を楊枝でほじくるやうな節約令、風俗取締令も彼等を震駭(しんがい)させたものに相違ない。

 これより先、三都のブルヂヨア間には、なほ一つの大きい不平が(うんぢやう)しつゝあつた。その不平といふのは外でもない。それは田沼の時代に鋳造発行された南鐐(二朱銀)の品質が比較的佳良であつた上に使用上、非常に便利であつたところから、市民の間に追々この南鐐が重んぜられ、従つて金相場と銭相場とは甚だしい低落を来した。

 金相場の低落といふことは、江戸のブルヂヨアどもにとつては、大へんな苦痛であつた。そこで江戸のブルヂヨアども、すなわち、両替屋どもから、幕府に対して、南鐐の品質をもつと劣悪にして貰ひたいという陳情が、頻々としてその筋の役人の手許に提出されるやうに なつた。

 ところが松平越中守定信の政府に於いて、かやうな陳情を受付くべき筈がない。越中守に代つて老中となつた松平信明の政府はどうかといふに、これも越中守の政策はそのまゝに引継ぐことになつてゐた故に、ブルヂヨアどもの身勝手な陳情にはいつかな耳をかさない。それでブルヂヨアどもは寛政以来、ただあせりあせつて居た。


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