Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.1.11

玄関へ

大塩の乱関係論文集目次


『維新革命前夜物語(抄)』
その2

白柳秀湖 (1884-1950)
千倉書房 1934 より

◇禁転載◇


第十二章 水野忠成インフレーションの巻

一一四
 水野忠成の改鋳によつて
  完全に破壊された徳川氏の貨幣制度

 一体、松平定信が内外の情勢から引退を余儀なくされた時、将軍を始めとして、天下に誰一人その政策を宜しくないなど思つて居るものはなかつた。将軍家斉も、今後の政綱は、定信在職中と些かも変更あるべからずと仰せ出され、後継内閣に首班であつた松平信明も固くそれを守つて動かなかつた。

 されば、三都のブルジヨアどもから、度々南鐐を何とかしてくれという陳情があつても、それに耳をかさなかつた。彼は曾てそれに対してかういうことをいつた。

『品質の良い金銀をわざ\゛/悪くするといふことは、天理にもどるばかりでない。異国に対しても、わざ\゛/わが日本国の耻をさらすやうなものぢや。金銀の品質を悪くせねば、流通 高が滅り町人どもが難儀致すやに申すものもあるが、その時は上の御威光を以て、石でも、瓦でも金銀の代用品として通用させることも出来る。折角純良な金銀にまぜものをして粗悪 にするなんど、冥利のほども恐ろしいことぢや。』

 かやうにして頑張つた松平信明が、文化十四年に身まかると、こんどは水野忠成が代つて老中の首班に坐つた。さうして、文政元年にはたうたうブルヂヨアどもの陳情に負けて、二 分判を発行することになつた。これで吉宗以来歴代の当局が、苦心に苦心を重ねた末、やつと物価との平衡を保ち得るやうになつた金銀の制が再び元禄、宝永の乱脈状態に戻ることとなつた。

 二分判といふのはつまり一両の小判を半分にしたものである。二枚で一両と定めたが、前に元文年間に発行された『文字一分判』に含まれた正金(しやうきん)が、五分七厘五毛であつた関係からいへば、こんどの二分判には、正金がその二倍含まれてゐなければならぬ筈であるのに、やはり正金を前の一分判と同じ量とし、その残りを銀として出目を貪つた。文政元年の発行であるが、これは前に述べた元文度の、『文字金(ぶんじきん)』『文字銀』『文字一分判』とまぎらわしいので『文』の字を真書で認めて、文字金銀と区別し易くした。故に世間で『真字二分判』と称へた。だから『真字二分判』といえば、文政元年に発行された二分判金ということになるわけだ。

『真字二分判』は、江戸にありては六月十日、大阪にありては十一月十八日を以て発行せられ、金座並びに御用両替屋に対し、『瑕金(かきん)』との引替事務が命ぜられた。

 二分判金の発行が滞りなく済むと水野忠成の政府はさらに小判と一分判とを発行した。小判吹直しの趣旨として公表されたところによると、永久にかけたり、裂けたりすることのないやうにこれまでの目方通りで、少し厚目に改めるといふにあつた。

 ところが新小判の世に出たのを見ると、その実質は正しく政府の声明を裏切つてゐた。既に述べた如く、文字金は、一枚の重量三匁五分、その中に正金二匁三分を含んでゐたのに、新小判は、一枚の重量三匁五分の中、正金は一匁九分七厘しか含まれてゐなかつた。これは明らかにいんちきであつた。

 又、一分判発行につき、幕府の声明したところを見ると、従来の一分判(元文)の中には座方の極印が堙滅(いんめつ)して分らなくなつたのもあるから、このたび改めて新一分判を出すといふにあつた。しかるにこの一分判もいんちきで、『文字一分判』の中に含まれた正金が五分七厘であつたのに対し四分九厘にへらされてゐた。世にこれを『文政金』と称へた。江戸では文政二年六月二十日に、大阪では同年十二月十日にこれを発行したが、この頃になると市民の眼もこえてその評判は滅茶々々であつた。


『維新革命前夜物語(抄)』目次/その1/その3

大塩の乱関係論文集目次

玄関へ