Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.8.13訂正
2002.3.8

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大塩の乱関係論文集目次


『維新革命前夜物語(抄)』
その15

白柳秀湖 (1884-1950)
千倉書房 1934 所収

◇禁転載◇


第十三章 天保の大飢饉、都市ブルヂヨア豪華の巻

一二七
 竹越先生でさへ
  十五人の暴挙を一揆三千人と書く

 陣屋側は不意をうたれて少なからず狼狽し、小者の中には戦はずして逃げるものが多かつた。浪士側では、鈴木条之助が最もよくく戦ひ、数人を殺傷した。鈴木条之助は城之助、または城之扶に作る。江戸の浪人で万が事を挙げる少し前に、江戸から三條の大庄屋、宮島義左衛門方に来て子弟に神道無念流の剣法を授けて居たものである。万と宮島方に落合つて忽ちに意気相投合し、一挙に加はつたものである。

 この時柏崎の陣屋はちやうど火災にあつて類焼した後で、新築が落成せず、門も、役所もまだやつと屋根を葺(ふ)き廻した程度であつたので、諸役人は多く附近の民家を借りて住んで居たが、追追に変をきいて駈付け、人数を加へたが、浪士側には加勢をするものが一人もない。こゝでも彼等の目算は外れた。

 これは生田万が歌人などによくあり勝ちな白己陶酔から、柏崎、三條地方に於ける自分の文名を過大に見てゐた結果であらう。由比正雪も、大塩平八郎も何ほどかそれで愆(あやま)られてゐる。

 陣屋側の人数が加はつてゆくに引きかえて、浪士側は追々にその一味を討たれ鈴木条之助も遂にその場に討死した。首魁生田万も身に数創を被つて身体の自由を失つたのを山岸加東治が肩に引かついで海浜の方にのがれた。鵜川橋を固めて居た鷲尾甚助、古田亀一郎の両人も途中からこれに加はわり、海浜に至り、万と共に砂上に踞(きよ)して屠腹(とふく)した。たゞ、鷲尾甚助一人は最後に残つて、一同の介錯をした後万の首級を抱いて、その踪跡(そうせき)をくらましたが、間もなく江戸表に自訴して出で義挙の顛末を遂一、陳述に及んだ後、獄中に病死した。

 竹越与三郎先生がその著『二千五百年史』で、一揆三千人起ると誇張した越後柏崎の生田万事件というのは実にこれであつた。首魁六人、船頭一人、荒浜村の百姓八人、合計十五人の陣屋斬込事件である。竹越先生は何を根拠として一揆三千人と書かれたか知らぬがそれは大塩平八郎の事件の後ではあつたし、当時さういふ大袈裟な評判が、日本国中に伝はつたことだけは確かであらう。何がさて越後出身の竹越先生でさへさういふことを歴史に書くほどであるから、その当時如何にはげしく天下の人心を震駭(しんがい)させたかはほゞ推察することが出来る。

 生田万事件のあつた翌年、すなはち、天保九年には、柏崎からは呼べばこたへん佐渡国上山田村に義人中川善兵衛なるものがあつて同志十三人をかたらひ、飢民救助のために暴動を起したことがあつた。越後地方ではこれも生田万等と連絡のあつたことであると噂され、従つて大阪なる大塩中斎の残党であるとされたものであるが、徳川氏の世もこの天保の大飢饉とまで事態を悪化させてしまつては、もう天下乱離の外に行きつくべきところはなかつたのだ。一歩をあやまれば、日本国中が、蜂の巣をつゝき毀したやうになることが見え透いて来た。

 この危険な形勢は、もちろん、政府の人の眼にもよく見えすいて来た。インフレをやつても永続きはせぬ。直にデフレに手をかへねばならぬ。デフレをやつても利目がない。直にインフレに戻らなければならぬ。それはもうよく分つてゐた。分り過ぎるほどよく分つて居た。しかし、徳川氏としては、善くても、悪くても、それをするより外に策はなかつたのだ。

 そこで、水野越前守忠邦がせり上げられた。さうして、徳川幕府最後のデフレーションが行はれることゝなつた。


『維新革命前夜物語(抄)』目次/その14

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