Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.8.13訂正
2002.3.6

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大塩の乱関係論文集目次


『維新革命前夜物語(抄)』
その14

白柳秀湖 (1884-1950)
千倉書房 1934 所収

◇禁転載◇


第十三章 天保の大飢饉、都市ブルヂヨア豪華の巻

一二六
 歌人生田万、
  同志五人と柏崎の陣屋を襲撃

 その頃から、柏崎の町々へ、『落し文』といふものが、どこからともなく降り出した。今日のことばでいえば、『怪文書』といふやつである。大塩平八郎の檄文は、『天より被下候』とあつたが天から降つて来たのでも何でもない。人間が持つて廻つたのである。越後柏崎のはそれが辻々に落ちて居た。たしかに天からでも降つて来たかのやうに見える。

 それから、この事件がいかにも皮肉にきこえたのは、柏崎地方八万三千石が、寛政デフレの立役者である松平越中守定信の所領で、現にその子孫の支配に属するものであつたといふことである。それでその落し文には、『楽翁様』といふ文字が二三ケ所に出てゐる。要するに楽翁様の時には、百姓の幸福を第一として、万般の制度を御立てになつた。しかるに今の役人どもは少しも楽翁様の御趣旨を守らず、この非常の場合、豪農が米を他国に売らうが、悪町人どもが米を他国に積出さうが見て見ぬ振りをしてゐる。この上は必死の覚悟で制法を立てゝ戴かなくてはならぬ。『乍去(さりながら)大塩平八郎様の大事は堅く禁制の事』に申し合はわさねばならぬ。しかし、第一に二人の代官を始め、これと結託してゐる米屋共には天誅を加へなければならぬ。天誅を加へることは楽翁様の御趣意にそふもので、楽翁様に代つてするのだといふことが、くど\/と認めてあつた。

 柏崎の町にこの落し文が降り始めると間もなく、生田万は柏崎を去つた。それは五月九日のことであつた。突然樋口出羽を訪ね、自分は三條なる藤懸丹後方を訪ね、場合によつては、半月ほど遊んで来たいと思ふ故、留守のところは何分頼むといひ置き、門弟山岸加藤治を従へて、飄然三條に赴いた。

 藤懸丹後は、樋口と同じ三條の神官で、万の熱心な帰依者の一人であつた。彼は三條でしばらく藤懸の家に滞在した後、新潟に遊びまた引きかへして、このたびは同じ三條町なる大庄屋、宮島義左衛門方に逗留して、その伜達のために国学の講義をして居た。

 しかし彼の義挙はこの間に計画された。五月三十日には同志驚尾甚助、鈴木城之助、小野沢佐右衛門、古田亀一郎、山岸加藤治の五人と共に、西蒲原郡なる間瀬(ませ)から船を出し、夜の九つ過ぎといふ頃、刈羽郡荒浜に上陸し、その夜の中に、附近の豪農四軒を襲つて金銀穀物を奪取つた後火を放つて村民を集め、驚いて駈付けて来た百姓どもに、件(くだん)の金穀を残らず分け取らせた。

 そこで彼等は揚言した。われ\/は大阪に於いて事を挙げた大塩平八郎の一党である。尚ほこの上にも賑恤を望むものは、われ\/と共に働くがよい。柏崎に乗込んだ上で、十分のものを取らせようと。そこで一行は村民八人と、船頭一人とを加へ、都合十五人となつた。これはしかしながら、彼等の予期を裏切つた結果であつたに違いない。

 しかし、彼等はその先頭に、用意の大旗二旒(りゅう)を押立て堂々と柏崎に乗込んだ。一旒には『奉天命誅国賊』とあり、他の一旒には『集忠臣救窮民』とあつた。彼等が柏崎に着いたのは六月一日の払暁であつた。彼等は鷲尾甚助と古田亀一郎とを鵜川橋の上に置いて町の方を見張りさせ、馳突(ちとつ)して代官所に至り、火を放つてこれを襲つた。

 柏崎の陣屋は、町の西端にあり鵜川を距(へだ)てた大久保村の小高い丘の上に置かれてゐた。この陣屋には郡代、勘定頭、代官、横目、預所元締、勘定奉行、勘定人、公事方掛、手代、下横目、郷使、町同心、炮術方、馬廻り、書院番、城内番組等の役目を帯びた諸役人が凡そ六十人ほど、それ\゛/付近にその住居を構へてゐた。代官は一人の時もあり、二人の時もあつたが、この時は二人であつた。


横山健堂「大塩平八郎と生田万


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