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天保の大飢饉で東北の災害がどんなに激しかつたかは、今に美譚として語
り伝へられて居る両高梨家の慈善によつても、略そのさまを察することが出
来る。前回に述べたやうに、東北の村々から飢の為に追立てられた窮民は、
途々百人二百人と人数を増し、絡繹として江戸の方に流れ込んで来たものら
しく、東北と江戸とをつなぐ諸街道の騒ぎは大変なものであつたらしい。そ
の頃今の茨城県常陸国真壁郡養蚕村茂用といふところに、高梨助右衛門と呼
ぶ豪農があつた。この助右衛門は家、水戸街道に沿うて、五十五棟の土蔵を
建てつらね、一箇年の醤油醸造高数万石、蔵人夫だけでも百二十人を使つて
居たほどの豪勢振りであつたが、平生憐みの心深く、天保七年から同八年に
かけての大飢饉で、水戸街道にも東北の飢民が、日に/\群をなして流れて
来る悲惨のありさまを見ては、黙つて何もせずに居ることが出来ず、救小屋
を設けて日に三度づゝ粥を施行することとした。ところがその後追々に流民
の数を増して、多い時は、一日六・七千人にも及んだことがあつた。かやう
に夥しい流民の中には病人も少くなかつたので、助右衛門はその救小屋に医
師三人を抱へて置いて、薬を施し、病んで死ぬものがあれば、僧に請じて、
懇に跡弔ひをし、死骸は自分の畑の中に埋めてやつた。僧には一人に付二朱
二百文の布施を出して粗略のないやうにしたが、埋葬者の数は凡そ三千人に
も上つたとのことである。
又、その救小屋に収容されて居るものゝ中で、元気を恢復し、志すところ
に向つて旅立たうとするものがあれば、助右衛門は旅費として、一人に付必
ず二百文を施し与へた。かくて天保七年十月から同八年九月に及び六七万人
の流民を救つた為に、助右衛門の費したところも少くなかつた。孫某なるも
のが、その家道の衰へとなることを憂ひていつた。『おぢいさん!かうして
毎日/\集まつて来る人達には限りがないのに、家の身代には限りがありま
す。慈悲のお心は、申し上げやうもない結構なことに存じますが、今のやう
では行く先が案じられます。』すると助右衛門はこれに答へて平然としてい
つた。『いや、何も心配することはない。財産のあるほどは施して、財産が
なくなれば止める。施して手許は無一文になつてしまつても、家と田畑だけ
は残る筈だ。それが残れば、お前達の暮してゆけぬことはない。』
又、野田の醤油屋に助右衛門と同姓で権兵衛と呼ぶものがあつた。これは
江戸で使用する醤油の過半は、その手で造り出すといはれて居るほどの豪家
であつたが、茂田村なる助右衛門に劣らぬ慈悲の心の深い人で、東北から、
流れて来る飢民を救ふことにつとめ、救小屋を作り、粥を煮て食はせた。百
あんこ
姓は床の上にいこはせ、乞食は床の下に置いて懇にいたはつた。編板送りに
して来る病人でも、寺判さへあれば、直に収容して小屋に留め置き、抱へて
置いた医師の手にかけて手当を施した上、薬を与へた。その為に費したとこ
ろ、金に積つて凡そ二万両に及ぶべしとのことであつた。
権兵衛は前の飢饉にも、同じやうにして流民を救ふことが夥しかつたので、
政府から帯刀を許され、八人扶持を給せられて居たが、このたびの計らひ方、
神妙の至りなりとて、更に代官格に進められた。
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絡繹
(らくえき)
人馬の往来など
の絶え間なく続
くさま
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