Я[大塩の乱 資料館]Я
2017.12.5

玄関へ

「大塩の乱関係論文集」目次


「天保の大飢饉」その3
白柳秀湖

『民族日本歴史 近世編』千倉書房 新版 1944 所収

◇禁転載◇

第十二章 インフレ・政治の行詰りから封建的新体制計画まで
 第四 天保の大飢饉(3)
  <補註>天保大飢饉の惨状と地方人心の不隠
   (二)天保七年奥・羽地方の惨状  
管理人註

 以上、記するところは天保四年の東北地方に於ける飢饉の惨状であるが、 それから中二年を距てた天保七年には更に大きい飢饉がやつて来た。先づ天 保七年の夏の頃から、陰陽全く順を失ひ、六・七月に及ぶといへども、陰雲 低く垂れこめて、陽光を仰ぐこと稀に、人々皆冬衣を取出して肌につけ。一 人として扇を手にするものがない。六月二十一・二日頃には、処々に天から 白い毛が降つて来た。その長さは一様でないけれども、長きものは二尺に余 るものさへあり、大体に馬の毛のやうであつた。人人驚きおそるゝこと限り なく、いかなる天災の到るべきかと語り合ふところに、果して五穀みのらず、 全国一般の大飢饉となつて、その惨状は、天明の大飢饉にまさるとも、劣ら ざるものがあつた。  例によつて、最も甚だしい災害を被つたのは奥・羽地方であつた。  磐城辺ではっ、草の根・木の芽はいふに及ばず、鶏・犬・猫・牛馬など、 凡そ生きとし生けるものは尽く打殺してくらひつくし、夜に入ればくらきに まぎれ出でて、麦の芽のかひわれしたるをとりて食ふ。桃生・牡鹿の両郡は、 餓死せしもの殊に夥しく、その数、幾千人にも及んだとのことである。  餓を訴へて泣き叫ぶ声は、春より秋に至りてやまず、後にはその声さへも やみ、村落は寂として全く人語を絶つに至つた。かくて餓死したものゝ屍 体は、野犬どもの貪り喰ふに任せ、腐敗靡爛した骨肉が籬落路次に散乱して、 実に眼もあてられぬありさまであつたとある。  米の価は仙台で、四斗二・三升入り一俵四両の高値を呼び、小売白米は四 升の価一分、大豆は九升の価一分とあつた。一般物価の貴さも推して知るべ きである。  小宮山綏介の保存して居た大槻盤渓の手簡によると、この頃奥の芭蕉の辻 辺で、六・七歳ぐらゐから十四・五歳位までの童女達、三々五々打群れてさ まよひあるき、夜に入れば寒しと泣き、ひもじと叫びて訴ふる声、あたりに 響きて、哀切まことにきくにたへず、これはその父母が、他領に出奔する時 に路傍に棄て去つたものであるとのことである。老人、病者は皆淵川に身を 投げて死んだものらしく、どこの村にも、その影を見せなかつたとある。又、 同じ手簡の中に次の如き注目すべき記述があつたと小宮山はいつて居る。   加美郡より、江刺郡へ赴く途中にて、父母は已に死し、妻も死し、十二・  三の女子と両人にて、有壁沢まで行くに、女子も亦死せしに自ら鉈を以て  枯木を切り、××××××××××、又あとより飢民の来るありて、両人  して当月(七年十二月)三日より六日までに××××××、両人とも斃死  し、×××××、×××××置けるよし、親しく見しものゝ談なり。古史  に『子を易へて食ふ』といふことあり。誠しからぬこと思ひしに、只今右  の如くなることあり、是にて国元大飢饉のありさま察せらるべしとなり。


(げき)



























徳富猪一郎
『近世日本国民史 27
 文政天保時代』
その22


(なた)













 


「天保の大飢饉」目次/その2/その4

「大塩の乱関係論文集」目次

玄関へ