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この全国的の大飢饉につれて江戸の米価も、暴かに騰貴して来た。殊に天
保七年七月十八日と八月一日との両度に江戸を襲つた大暴風雨は関東の諸川
を氾濫させ、さらぬだに騰貴してゐた米価をいよ/\ミ騰させることゝなつ
た。
先づ蔵米の値段からいふと、百俵の価百四十五両、これはその頃としては、
実に破格の高値である。従つて、市中の小売市場も、近年にない高値を呼び、
白米の価一両に六斗五升から二斗五升となり、百文に二合八勺の呼声をきく
に及んだ。
やがて不隠の空気は刻々市中に漲つて来た。人々はみな天明七年の打毀し
を想ひ起して、安き心もなかつた。これより先、天保四年には江戸に軽い一
種の米騒動が起つてゐる。それはどんなことであつたかといふと、平素細民
からその因業を憎まれてゐた市中の豪家が、町々の木戸・橋の欄干など人の
目につきやすいところに施行の為、米の廉売をするといふ張札をされた。初
めにそれをされたのは、芝の三田で、俗に『乞食松屋』と呼ばれてゐた俄分
限者であつた。張札のおもてには、来る十月一日から、向ふ三日間、百文に
付白米を一升一合五勺に売るとあつた。この張札の町々の木戸・橋の欄干な
どに張出されたのは九月二十八・九日頃のことであつた。その頃江戸での白
米の相場は、一両に四斗三升ぐらゐのものであつたから、百文に一升一合五
勺といへば破格の廉価である。それで十月一日の朝になると、江戸中の細民
が潮の如く松屋のまはりに押しよせて、早く米を売れ、早く米を渡せと口々
にののしり騒いだ。
松屋は元来、質屋であつて、米屋ではないので、白米廉売の貼札はもとよ
り松屋の関り知らぬことである。番頭が出ていろ/\に弁解するけれども群
衆はきゝ入れない。果ては店前に石瓦を投げつけ、馬の破れ草鞋などを抛り
込んで狼藉に及ぶので、止むを得ず一人に付、二百文づゝを施して去らせよ
うとしたが、それをきくと細民は刻々に数を増し、果ては数千人に及んで松
屋も手の下しやうがなく施しを打切つた。すると群衆はいよ/\いきり立つ
て乱暴を働くので、遂に町役人が出て追散らさうとしたけれども、何分にも、
大多数のことゝて、夜に入つて群衆が自然に退散するまではどうすることも
出来なかつた。
この騒動をきいた市中の富富豪連は身ぶるひして恐れ、天明七年の騒動を
くりかへさぬ中にといふので、それぞれ町内の裏長屋・自分持の長屋へ、或
は戸別に、或は人別に施行をした。施行は米でするものがあり、金でするも
のがあり、或は家賃をまけてやるといふものもあつた。この時の施行の中で
は、鹿島清兵衛の出し振りが一番鮮やかであつたとある。
しかるにこの際、富豪連の中には、自分持ちの長屋中へだけ施行して、町
内の細民へは施行をせぬものがあり、いたく一般の恨みを買つたが、十一・
二月頃になると、三田の松屋と同じ張札をされて大騒動に及んだとある。
天明大飢饉の時には、三都の富豪で施行をしたものは殆ど一人もなかつた。
しかるに天保四年から天保八年にかけての大飢饉では、江戸を始めとして、
三都の富豪が率先して貧民に施行してゐる。これは天明七年の打毀しで、か
れらのうけた精神的・物質的の創痍があまりに、きびしかつたことにもよる
こと、もちろんであるが、それよりも、社会一般が飢饉を天災とのみ見ぬや
うになつて来た。大飢饉は大富豪がこれを造り、又、大富豪をつくる。一般
の眼が期せずして都市大町人層にあつまることになつた。
しかも天保五年度に於ける白米小売相場の最高記録は百文に付四合(五月
七日から)であつたのに、天保七年にはそれが、百文に付二合八勺まで騰貴
した。これはまさしく前代未聞といつてよい。騒動の起るのは必至のいきほ
ひとなつて来た。
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暴(にわ)かに
司法省刑事局
『飢饉資料』(抄)
その6
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