Я[大塩の乱 資料館]Я
1999.11.26/2003.9.1修正

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 乱」その1

『大阪市史 第2巻』(大阪市 1914、1927再版)より

◇禁転載◇


改行を適宜加えています。


一、挙兵の決心と準備 (1)

 

大
塩
平
八
郎
と
高
井
実
徳


東組与力大塩平八郎身羸にして性甚だ鋭明なり。
其職に在るや、勇往直前、猾吏を斃し、姦卒を誅し、妖婆民心煽誘の害を除き、又僧侶羶腥汚穢の風を一新す。
京師・奈良・堺の官司も亦之に傚ひ、貪饕の吏を黜け、姦邪の僧を誅するに及び、平八郎の名声遠近に震へり。
而して彼をして此の如く能く手足を展ぶるを得せしめたるは町奉行高井実徳なり。
故に天保元年七月、実徳老を告げて代を請ふに及び、平八郎「義不得不共棄職以招隠」として帰休を請ひ、家督を養子格之助 ○東組与力西田青太夫弟 に譲りて退隠し、辞職の詩并に序を作りて其志を明にせり。
時に年三十八。

 
平
八
郎
の
辞
職
と
頼
山
陽

壮強の年衆望翕属の時に当り、決然として権勢を去りしかば、聞く者驚愕せざるは莫かりしかど、平八郎の知己を以て許せる山陽は「子起固より当に然るべし、然るに非ずんば以て子起と為すに足らず、吾嘗て其精明を過用して鋭進折れ易きを戒む、子起深く之を納る」といひ、平八郎も亦自ら「其働成就の後、其功ニ依而褒美官職知行抔貰候と、自分一家之栄を相喜相慶し、実心其主家天下之事を不思勝成ルものニ御座候、是義何レも只今に始候事ニ者無之、古より之流弊ニ候、僕其義を嘆息いたし候付、先年より追々其私情を去ル工夫ニ力を尽し、下賎ながら心付候事者、身并家をも不顧、寸心一杯に尽し、誠ニ危事共相犯し候、爾来或人ニ被悪、或人に被妬被誹、或頭の耳ニ逆候事共諌諍いたし候義、中ニ者貴兄も御存有之候通にて」云々と記せり。
寒氷烈日の如き彼の行為は、衆望を得ると共に衆怨を集めたるなり。
彼が実徳に倚つて江戸に召されんことを請ひ、其望を遂げずして不平欝積せりといふが如きは、区々たる私見を以て、中斎の胸裏を推せるもの、全く其非を弁ぜずして可なり。

    洗心洞詩文、大塩中斎手翰(関根一郷氏蔵)洗心洞箚記附録抄、
 
東
組
与
力
同
心
の
不
平

東町奉行職は高井実徳以後、曾根次孝 ○日向守、天保元年十一月任命 ・戸塚忠栄・大久保忠実相次いで之に任ぜしが、皆在職満二年を出でずして転任せり。
此の如く更迭の頻繁なるは幕府に対し東町奉行の首尾宜しからざるに起因し、東町奉行の首尾宜しからざるは、西組与力同心の処置に起因するなるべしとは、当時東組与力同心間に行れたる流説なりき。
天保七年七月新町奉行跡部良弼着任するに及び、組与力同心中或は事務に達せず、或は漫に私見を主張する者少からざるを見、是等に組替を命じ、公務処理の為、西組与力をして東組を助役せしめんとする風聞ありしかば、東組与力同心疑惧の念は愈々増長するに至れり。
良弼の改革意見は今之を知るを得ずと雖も、当時町奉行附与力同心は東西を論ぜず、漫然として父祖の職を襲ひ、文書の形式に通じたるのみにして、一隠居平八郎を除けば、余は文学に武術に特殊の造詣ある者無く、多くは公私百般につき平八郎を仰いで師とし、奉行も亦時に人を遣して平八郎に公事を諮問せり。
されば西町奉行矢部定謙参府後、良弼屡々西組与力同心と公務を談じ、又は組与力同心出勤の刻限其他に関して厳命を下すや、東組与力同心等は之を以て改革の発端と認め予て疑惧せし組替等の件も早晩事実として現るべしと信じ、不快と不平とに蔽はれ、平八郎も亦痛く之を憤り、門人東組同心吉見九郎右衛門に其意を漏したることありき。

    評定所吟味伺書(平山助次郎吉見九郎右衛門ノ條)、
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「大塩乱」目次/その2

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