『大阪市史 第2巻』(大阪市 1914、1927再版)
第4編「徳川時代」より
◇禁転載◇
その1 | (1) | 大塩平八郎と高井実徳 平八郎の辞職と頼山陽 東組与力同心の不平 | 〔4900B〕 | |
その2 | (2) | 天保七年の飢饉に対する官私施設の失当 大塩平八郎町奉行の施政矛盾と富豪の驕奢とを憤慨す 遂に意を決して兵を挙げんとす 挙兵に関する伝説 平八郎の気質及人相 | 〔6400B〕 | |
その3 | (3) | 同志の糾合 兵器の準備 鬻書賑恤 賑恤の範囲 人夫の召集 渡辺村の懐柔 策戦 | 〔9900B〕 | その4 | (4) | 檄文の印刷 檄文の趣旨 平山助次郎の密告 両町奉行平八郎捕縛の内議 吉見九郎右衛門の密告・河合郷左衛門の出奔 両町奉行の応急手段 | 〔6500B〕 | その5 | 二、騒 乱 | (1) | 閲兵 宇津木矩之允の惨死 出陣 北船場に入る | 〔5700B〕 | その6 | (2) | 城代土井利位両町奉行両目付に暴徒逮捕を命ず 城内の警戒 両町奉行定番与力同心の援を求む 玉造口与力同心の赴援 坂本鉉之助 東町奉行所の警戒 京橋口与力同心の怯懦 跡部良弼組下の与力同心を疑ふ 堀利堅出馬す 利堅落馬して一隊散乱す | 〔8100B〕 | その7 | (3) | 跡部良弼出馬す 内平野町の衝突 淡 路町堺筋の衝突 鉉之助の殊勲 暴徒殊勲 鹵獲品 堀利堅再び兵を進む 両隊相会す 跡部良弼入城して暴徒 逃亡の顛末を報ず | 〔6400B〕 | その8 | (4) | 城代諸藩の兵を召す 阪城内外の警衛 伏見堺両町奉行の来援 諸家蔵屋敷の備砲其用に充らず 両町奉行消防に従ふ 類焼の範囲 被害の程度 | 〔6700B〕 | その9 | 三、末 路 | (1) | 人相書を附して平八郎父子及其徒を索む 風説頻々 平八郎等身を変じて逃げる 一行分離 瀬田済之助及渡辺良左衛門自殺す 党員の捕縛自首自殺相踵ぐ | 〔8300B〕 | (2) | 美吉屋五郎兵衛平八郎父子を隠匿す 与力内山彦次郎平八郎父子の所在を偵察す 城代家臣等彦次郎変と捕縛の手続を議す 城代家臣彦次郎等美吉屋を囲む 平八郎父子自殺す | 〔6000B〕 | その11 | (3) | 評定所の吟味 裁決 刑の実施 主犯者の子弟に対する寛典 平八郎裁許状の失態 賞賜 | 〔5900B〕 | その12 | 四、乱 後 の 賑 給 | (1) | 道頓堀芝居に罹災者を収容す 御救小屋三ケ所を設く 掛惣年寄の諭告 再び三郷并に兵庫西ノ宮の窮民に二千石を賑恤す 町々有志の義損額と其配当 | 〔4700B〕 | その13 | (2) | 人心慰撫及罹災者救助に関する各種の法令 暴動以後の物価騰貴 細民の窮厄 時疫の流行 間銀を搗米屋に与へて白米を廉売せしむ 銭五万貫文の下賜と其配当 町々有志の義損額と其配当 目印山船溜の開鑿土砂運搬の男女に粥を賜ふ 大塩焼後借屋の払底 家請人の勉励を諭す 大番衆の御用宿の不足を | 〔12000B〕 |
明治34(1901)年に立案された『大阪市史』(全5巻 8点)の編集は、明治42(1909)年9月に完了し、明治44(1911)年から大正4(1915)にかけて刊行されました。この編纂のために破格の待遇で東京から迎えられた幸田成友(1873〜1954)は、当時28歳でした。この『大阪市史』を博士論文として提出したものの、「幸田成友著」となっていないという理由で却下されたという逸話が残っています。
幸田成友は、明治43(1910)年1月に、在阪中に収集した史料を駆使して、東亜書房から『大塩平八郎』を出版しました。
昭和17(1942)年創元社から改訂版、翌18(1943)年に改訂増補版がでています。
参考
『大阪市史物語』藤本篤 松籟社 1993
『大塩平八郎』幸田成友 中公文庫 1977 「解説」太田臨一郎