駿府の粥
施行
御救米 |
天保の饑饉は天明以降の大災であつた。四年 二四九三 より五年にかけ
て気候順ならず、一般に不作であつた。これが為め米価騰貴して、飢餓に
瀕する者が続出した。五年 二四九四 の五月、駿府にては身元ある者五十
人、施米のため、千百三拾三両を醸金し、内千両は米にて施し、残百拾三
両は粥として、難渋の者を救はんとて寺町感応寺に於て粥施行があつた。
施行の場所には二尺五寸の釜六口を据ゑ、金子方世話人十人宛詰め、当番
の町々これが世話方となり、廿六日より晦日迄六日間、券として渡した総
札数は四千三百廿六枚であつた。続いて六月朔日より四日迄、公儀より下
賜の金五拾両を以て前同様施行した。六月廿六日、年行事外町方惣代を召
出され、御白洲において左の仰渡があつた。
当地町方之儀、連々困窮之上、去巳秋、違作之国柄多く、米価高直に付
拝借頃之儀、追々相願候間、町触申聞置候処、当夏麦作取実少き趣に而、
米価格別引上け人気騒立、実に難渋之趣、相違も無之候間、夫食拝借
仰付られ候様致度旨、御老中方江相伺候処、米価高直之儀は、諸国一統
に而、不容易儀には候得共、難渋之趣、余儀なく相聞候間、格別の訳
を以、米弐百石高下さる。右之内惣町中江百六十石九斗四升、御慈悲を
以御救米下され候上は、心得違無之、此上如何様にも取続申すべく候。
右は大町小町にて竈数之相違も可有之候に付、町役人熟談を遂げ、猶
又壱丁限割賦米得と相糺し、末々困窮之者江割賦いたし遣し、此上騒立
等無之様致すべく候云々。
しかして二百石の内、残三十九石六升は、江尻宿・丸子宿・清水町・弥勒
町江下された。
小西某手記
|
徳富猪一郎
『近世日本国民史』
その22
二四九三
皇紀2493年
巳
天保4年
(1833)
|