Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.2.27

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「大塩の乱関係論文集」目次


「天保の饑饉 大塩の乱」
その1

静岡市市史編纂課編

『静岡市史編纂資料 第3卷 』
静岡市  1928 所収

◇禁転載◇

第一二章 天保の饑饉 大塩の乱 (1)管理人註

駿府の粥
施行






















御救米

 天保の饑饉は天明以降の大災であつた。四年 二四九三 より五年にかけ て気候順ならず、一般に不作であつた。これが為め米価騰貴して、飢餓に 瀕する者が続出した。五年 二四九四 の五月、駿府にては身元ある者五十 人、施米のため、千百三拾三両を醸金し、内千両は米にて施し、残百拾三 両は粥として、難渋の者を救はんとて寺町感応寺に於て粥施行があつた。 施行の場所には二尺五寸の釜六口を据ゑ、金子方世話人十人宛詰め、当番 の町々これが世話方となり、廿六日より晦日迄六日間、券として渡した総 札数は四千三百廿六枚であつた。続いて六月朔日より四日迄、公儀より下 賜の金五拾両を以て前同様施行した。六月廿六日、年行事外町方惣代を召 出され、御白洲において左の仰渡があつた。  当地町方之儀、連々困窮之上、去巳秋、違作之国柄多く、米価高直に付  拝借頃之儀、追々相願候間、町触申聞置候処、当夏麦作取実少き趣に而、  米価格別引上け人気騒立、実に難渋之趣、相違も無之候間、夫食拝借  仰付られ候様致度旨、御老中方江相伺候処、米価高直之儀は、諸国一統  に而、不容易儀には候得共、難渋之趣、余儀なく相聞候間、格別の訳  を以、米弐百石高下さる。右之内惣町中江百六十石九斗四升、御慈悲を  以御救米下され候上は、心得違無之、此上如何様にも取続申すべく候。  右は大町小町にて竈数之相違も可之候に付、町役人熟談を遂げ、猶  又壱丁限割賦米得と相糺し、末々困窮之者江割賦いたし遣し、此上騒立  等無之様致すべく候云々。 しかして二百石の内、残三十九石六升は、江尻宿・丸子宿・清水町・弥勒 町江下された。  小西某手記

徳富猪一郎
『近世日本国民史』
その22

二四九三
皇紀2493年


















天保4年
(1833)


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