駿府に於
ける打壊
し騒動
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六年 二四九五 は稍小康の態であつたが、七年には、春から降雨しげく、
冷気打続き、其の上塩気を含んだ暴風に襲はれたので、被害甚しく収穫皆
無の地方もあり、人気自然に穏ならず。八月四日には当町にも騒動があつ
て、富家米屋等数軒打壊された。藤波氏 本通三丁目伊左衛門 の手記によ
れば、
天保七 二四九六 申六月頃より米高直に相成、小売壱升百四五十文に相
成、追々高直、尤三月中頃より雨降、八月中程過迄雨天計りにて、諸職
共に難渋したし、土用も大概雨ばかり。稲作は出来方宜敷、不思議成事
に候なれ共、大水は度々成事に候。八朔頃迄は物静に御座候処、八月四
日夜五ツ時、急に相催候と相見え、打壊御座候。尤近所にて壱軒、夫よ
り七間町弐丁目の米屋壱軒、江川町・新谷町にて各壱軒、伝馬町米屋弐
軒、宝泰寺門前に而壱軒、都合七軒こはされ、夫より毎夜さはかしく御
座候。其時米壱升に付百六十四文、百七十弐文、百八十四文と成所、米
屋売を相止め候に付、右之次第に相成申候。
御上様より色々御意掛り候得共、至而さはかしく、町中より十月御切頃
御出し被下候様願候所、江戸伺にて九月上旬に御出し被下候、又米屋
中江言付、西之米を千八拾五俵買入、壱升に付代百九十文に相成り候所、
御上より御足し被下、百七十四文に売申候。外に先年町方より上置候
金子弐百両御下け被下、難渋之者江被下置、手前町内にては、十一
軒貰受候云々。
とある如く。切米の取越払出や、金穀の施与や、いろ/\賑恤の方法も講
せられたが、連年凶作が続いた為め、漸次米穀の欠乏を来し、七年末から
八年にかけては、全国にわたつて大饑饉となつて、駿府でも餓死の者が続
出するやうになつた。こゝに於て呉服町一丁目友野与左衛門を始め、同四
丁目忠右衛門・人宿町三丁目虎吉・四ツ足町半兵衛・同町幸三郎等、事態
容易ならずと見てより/\協議を凝し、一は窮民賑恤のため、一は人気緩
和のため、救助米壱万俵拝借の議を決し、三月十二日、町役人一統に謀つ
て其の同意を得たから、同十五日、前記の五人平方総代となり、七間町一
丁目町頭金十郎・本通二丁目町頭源右衛門の両人町頭総代となり、番所か
ら願受けた添翰と左の願書を携へて出府することゝなつた。当時町奉行牧
野左衛門は、駿府在任の命を拝したが、まだ発駕前で江戸に居られたから、
かへつて之を好機会として推参愁訴、大に願意の貫徹に努めたのである。
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徳富猪一郎
『近世日本国民史』
その22
二四九五
皇紀2493年
西暦1835年
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