Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.3.1

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「天保の饑饉 大塩の乱」
その2

静岡市市史編纂課編

『静岡市史編纂資料 第3卷』
静岡市  1928 所収

◇禁転載◇

第一二章 天保の饑饉 大塩の乱 (2)管理人註

駿府に於
ける打壊
し騒動

 六年 二四九五 は稍小康の態であつたが、七年には、春から降雨しげく、 冷気打続き、其の上塩気を含んだ暴風に襲はれたので、被害甚しく収穫皆 無の地方もあり、人気自然に穏ならず。八月四日には当町にも騒動があつ て、富家米屋等数軒打壊された。藤波氏 本通三丁目伊左衛門 の手記によ れば、  天保七 二四九六 申六月頃より米高直に相成、小売壱升百四五十文に相  成、追々高直、尤三月中頃より雨降、八月中程過迄雨天計りにて、諸職  共に難渋したし、土用も大概雨ばかり。稲作は出来方宜敷、不思議成事  に候なれ共、大水は度々成事に候。八朔頃迄は物静に御座候処、八月四  日夜五ツ時、急に相催候と相見え、打壊御座候。尤近所にて壱軒、夫よ  り七間町弐丁目の米屋壱軒、江川町・新谷町にて各壱軒、伝馬町米屋弐  軒、宝泰寺門前に而壱軒、都合七軒こはされ、夫より毎夜さはかしく御  座候。其時米壱升に付百六十四文、百七十弐文、百八十四文と成所、米  屋売を相止め候に付、右之次第に相成申候。  御上様より色々御意掛り候得共、至而さはかしく、町中より十月御切頃  御出し被下候様願候所、江戸伺にて九月上旬に御出し被下候、又米屋  中江言付、西之米を千八拾五俵買入、壱升に付代百九十文に相成り候所、  御上より御足し被下、百七十四文に売申候。外に先年町方より上置候  金子弐百両御下け被下、難渋之者江被下置、手前町内にては、十一  軒貰受候云々。 とある如く。切米の取越払出や、金穀の施与や、いろ/\賑恤の方法も講 せられたが、連年凶作が続いた為め、漸次米穀の欠乏を来し、七年末から 八年にかけては、全国にわたつて大饑饉となつて、駿府でも餓死の者が続 出するやうになつた。こゝに於て呉服町一丁目友野与左衛門を始め、同四 丁目忠右衛門・人宿町三丁目虎吉・四ツ足町半兵衛・同町幸三郎等、事態 容易ならずと見てより/\協議を凝し、一は窮民賑恤のため、一は人気緩 和のため、救助米壱万俵拝借の議を決し、三月十二日、町役人一統に謀つ て其の同意を得たから、同十五日、前記の五人平方総代となり、七間町一 丁目町頭金十郎・本通二丁目町頭源右衛門の両人町頭総代となり、番所か ら願受けた添翰と左の願書を携へて出府することゝなつた。当時町奉行牧 野左衛門は、駿府在任の命を拝したが、まだ発駕前で江戸に居られたから、 かへつて之を好機会として推参愁訴、大に願意の貫徹に努めたのである。

徳富猪一郎
『近世日本国民史』
その22

二四九五
皇紀2493年
西暦1835年


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