Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.2.21

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「大塩の乱関係論文集」目次


『近世日本国民史 27 文政天保時代』

その22

徳富猪一郎(1863-1957)著 民友社 1935

◇禁転載◇

    二二 天保年度の饑饉

天保初年 の天候不 良 奥羽の惨 状 惨状年を 経て益々 甚だし 餓狼藉 仙台市中 の迷児 自ら其女 の肉を食 ふ 江戸に於 ける惨状 と救済

天保年間に於ても、前に掲げたる長防の百姓一揆〔参照 雄藩篇、五五 ―五八〕以外、甲州に於ける一揆があつた。今ま其事を掲ぐるに先ち、 先づ天保度の饑饉に就て、少しく物語る必要がある。 天保の饑饉は、天明饑饉以来の出来事であつた。天保二三年以来、兎角 天候不順にて、秋収の不足を告げた。四年に至り、夏の半頃から、霖雨 数旬、暑熱甚だ薄く、六月の末には洪水あり、八月朔日には暴風あり、 而して其の必然の結果は、年凶にして実らず、奥羽に於て、殊に甚だし かつた。 当時或る撃剣師が、松前より九月朔日に帰途に就き、三馬屋に渡り一宿 したるに、宿料四百五十文と云ふに、一驚を喫した。それより外が浜辺 をたどり行くに、稲穂は直立した儘実りたるもの一本も無かつた。次日 は宿に米なしとて、蕨の粉を求めて喫し、又たその次日には、昆布、じ               わらむぎ んば草、ゑど抔いへる海草を、稈麦に交へて炊いた。南部盛岡の如きは、 両三年打つゞき不作にて、当年は殊更の大凶年だ。当時十俵を収むるも                       こぞ の、僅か半俵を得るに過ぎなかつた。されば一家挙りて逃げ散ずるもの、 一日百人を下らなかつた。城下又は山中、処処に小屋を設け、一日一人 に一合宛づゝの粥を与へたが、それも近比は届き兼ね、小屋内にて死す                おほあな     かばね る者、巳に二千人に及んだれば、大坑を掘り置き、屍は其の中へ打ち込 んだと云ふ。 此の如く天保四年の饑饉から、中二年を隔て、七年の夏は、気候愈よ不 順、六七月に至るも、陰雲四塞、日光を見ること甚だ稀れ、風気陰冷、 人々皆な冬衣を着けた。六月廿一、二日の頃には、処々に白毛を降らし、 その長きは二尺に余るものがあつた。されば人々皆な奇異の思をなし、 何れも疑惧したが、果して天下一般の大饑饉となり、五穀は勿論、菜蔬、 果物一として熟したるものは無かつた。 然も奥羽に於て、特に甚だしく、岩城の辺では、草根木皮は云ふに及ば ず、犬猫牛馬の類迄、食ひ尽し、夜に紛れ、麦苗の一葉を生じたるを 抜き取る者さへあつた。中にも桃生、牡鹿の両郡は、飢死者数千人。 秋の末迄は、餓を呼はり泣き叫ぶ声を聞いたが、後には其声も絶えて、 道傍に斃れた餓は、犬などに噛ちらされ、血肉狼籍、実に目も当 てられぬ有様であつた。 米価は仙台にて蔵米四斗二升入一俵を、金三両に代へ、白米は四升を一 分に、大豆は九升を一分に代へた。此程仙台芭蕉の辻辺にさまよひ、夜 に入れば寒しと泣き、空腹と叫ぶ声、実に聞くに堪へがたきものがあつ た。此れは何れも其の父母が、他郷に流亡の際、捨て去つた者共であつ た。 斯る次第なれば、老人、病者などは、川に投じて死する者が少くなかつ た。中にも悲惨なる話は、加美郡から江刺郡へ赴く途中、父母は已に死 し、妻も死し、十二三の女子と両人にて、有壁沢に往くに、女子も死し        なた               くら たから、自から鉈もて枯木を切り、女子の肉を炙りて啖ひ。又た後より 飢民来り、両人して天保七年十二月三日より六日迄、過半食ひ尽し、遂 ひに両人与に斃れ死し、女の首は未だ枝に貫れてゐたのを、実見した者 があると云ふ。〔大槻磐渓書簡の要略〕 翻て江戸を見れば、米価愈よ騰貴し、殊に七月十八日、八月朔日、両度                   ます\/ の大風雨にて、近郷出水したれば、騰貴倍々甚だしく、蔵米百俵百四十 五両、市価は両に六斗五升よ二斗二升に上り、百文に二合五勺まで上つ たから、市民の困苦大方ならず、因て官より払米一万石を出し、十月よ り筋違橋外、和泉橋外に救小屋を設け、饑民の流れ来るものを留め、粥 を施すこととした。十一月下旬には、小屋入の者、凡そ五千人に余つた。 又た町奉行所からは、八万両の買穀ありて、市価より引下げて払ひ出し、 此れが為めに、市民は漸く饑死を免れた。翌年にはその四宿へ救小屋を 設け、諸方より入り来る餞民を救済した。

      ――――――――――――――――――     柳原通りの餓死三十余人 天保七年の饑饉には、米価銭百石文に付二合五勺に昇りたれど、 屡々御救米出て御救小屋建て、極貧の者は其中に入りて飢を凌 ぐ事を得しにや、打毀しなどの暴行はあらざりしが、市中人別 外の者、諸方より入込来りて、非人乞食の類日に殖え、是等供 給の道なかりしなるべし、餓は日々路に満ちたり。大晦日の 夜など、柳原通り筋蓮見附より浅草見附の間に、三十余人の屍 を横へたるは、実に酸鼻の至りなりと、親しく見し人の話なり。 〔五月雨草紙〕   ――――――――――――――――――

   
 


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