Я[大塩の乱 資料館]Я
2015.12.12

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「大塩の乱関係論文集」目次


「大塩平八郎」
その2

蒼海楼主人・東海山人

『超常識と没常識−人間の裏と表−』日本書院 1920 所収

◇禁転載◇

超常識
 三三 大塩平八郎(2)

管理人註
  

 平八郎は大坂の与力なり。名は後素、字は子起、忠斎と号し、其居を洗 心洞と名け、陽明学を修めて発明するところ多し。壮にして吏務に練達し、 奸をし悪を懲すこと鬼神も及ばざるところあり。町奉行高井山城守致仕 するに及び、平八郎も亦老を乞ひ、職を養子格之助に譲り、己は家に在り て、専ら諸生に教授す。偶天保八年の饑饉に際して、餓路に相望む。平 八郎大に之を憂ひ、救恤の事に志し、町奉行跡部山城守に建言する所あり しが、斥けて聴かれず、平八郎怒りて曰く、治民の職にありて、民の餓死 を坐視するは、不仁の極なりと、私財を捐てゝ飢民を賑はす。財已に尽き て蔵書を鬻ぎ家具を売り、一万人に金一朱宛予へたり。果は城代町奉行の 罪を鳴し、之を誅すべしとて、檄を遠近に飛ばせ同志を嘯集し、遂に乱を 作せれ。時に天保八年二月十九日、火を市中に放ちて、木製の大砲を発し、 跡部の邸を攻む。然れども城代奉行等兵を出して之を逆撃し、平八郎遂に 衆寡敵せずして敗れ退き、奔鼠身を容るゝに地無く、遂に月余を経て誅に 伏せり。  平八郎の為す所、全く常径を失して、子弟の訓と為すべからずといへど も、其心事を察すれば、一意唯是民を恤れみ、吏を憎むのみ。其檄文中云 へることあり。『四海困窮せば、天禄長く絶ん、小人をして国家を治めし むれば災害并至る』『政務を執れる諸有司、公然賄賂を授受し、女謁に憑 りて、立身の階梯と為し、無学無術の小人、顕職に登りて、一人一家の私 利を貪り、人民を虐げ云々』『天子は足利以来囚人と等しく蟄居せしめら れ、天下の賞罰を正す者無し云々』。当時にありては、粗暴過激の言に似 たれども、今日より追想すれば、言々句々実際の事理を述べたるものなり。 若し飢民救恤の一事が動機となるにあらずして、単に幕吏の専横を憤り、                                 きびす 皇室の陵遅を慨するためとせば、勤皇家として竹内式部、山県大弐等に踵 を接すべし。要するに彼は時の政府に対して、乱賊の名を辞すること能は ずと雖も、天子のためには忠臣なり、人民のためには仁人なり、而して一 片の私心無し。又其学ぶところをして、空言に終らしめず、実際に於て、 社稷を重んじ、民人を恤まんと欲せば、幕吏の措置に対して此挙を企つる も亦止むを得ざるなり。  天草役後、海内武器を執りて相戦ふもの、大塩の乱を以て唱首と為す。 其身敗死すと雖も、幕府の基礎は是に於て動揺し始めたり。爾来勤皇と云 ひ攘夷と呼び、草奔の志士崛起して、幕府に反抗するの日に多きを加へた るは、平八郎の激成するところ亦少なからず、尋常の乱人と同一視すべき にあらざるなり。  跡部山城守命を大阪町奉行に拝するや矢部駿河守を訪ふて教を乞ふ。蓋 し矢部は嘗て大阪奉行として令名ありしを以てなり。跡部を戒めて曰く。 大阪は治め易し、たゞ一事の心に銘して忽せにすべからざるものあり。与 力の隠居に大塩某と云へも者、尋常の人物にあらず。若し誤りて其意に忤 へば、後患測るべからず、他に言ふべきもの無しと。跡部口に諾して心に 服せず。出でゝ人に語りて曰く、人駿州の明識を称すれども信ずべからず。 一与力の隠居何事をか為し得ん。駿州之を恐るゝこと甚し、愚なる哉と矢 部の知言果して験あり。  矢部駿州嘗て大阪に在りて、平八郎を其家に接見す。平八郎時事を談じ て慷慨止まず。眉昂り気激するや、膳上に供せるかながしらの焼きたるを 取りて、頭より咬み砕き尾に至り、骨と共に之を嚥下し猶議論を続けたり。 矢部其人と為りを察し、跡部に戒むるところありしなり。平八郎の学識あ りて、其情を矯むること能はざる此の如し気質の変化亦難い哉。然れども 平八郎の平八郎たる所以此に存するものなからんや、箇中消息常識論者と 語るべからざるなり。


忠斎
中斎が正しい














捐(す)てゝ


鬻(ひさ)ぎ

















大塩檄文
























社稷
(しゃしょく)
国家、朝廷

恤(めぐ)まん















川崎紫山
「矢部駿州」
その9



忽(ゆるが)せ


忤(さから)へば












昂(たかぶ)り

かながしら
金頭、
ホウボウ科の魚
 


「大塩平八郎」その1

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