Я[大塩の乱 資料館]Я
2012.10.24

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「大塩の乱関係論文集」目次


『民本主義の犠牲者大塩平八郎』

その10

相馬由也

開発社 1919

◇禁転載◇

二、暴の前の大御所政治 (3) 管理人註
   

                    うるつぷる  其後寛政七年(千七百九十五年)にも露人得撫に来たので、幕府の神 経は益緊張し、それより蝦夷中斎探に人を派する事相継ぎ、最上徳内、                          さやく 最上徳内、近藤重蔵、平山行蔵等も前後皆趣いて北門の鎖鍮といふ事が 其時代の流行語となつた。寛政十一年(千七百九十九年)には松前美作                  たうしよ 守章広の領土中から東蝦夷並に附近の島嶼を収めて、爾来七年間幕府の 直轄とした。其後文化元年九月に、露国の使節レサノフが我四人の標流 民を送り来り、図書方物を呈して通商の約を結ばん事を強請したが、成 らずして翌二年三月に、満腔の不平を抱き乍ら帰航した。文化三年(千 八百六年)には樺太に於ける露人暴行の事あり、其翌四年には、防禦手 当行届難しとの理由で、松前若狭守章広の領地の西蝦夷迄も全部取上げ て幕領とした。又其翌五年(千八百八年)には、延宝元年(千六百七十 三年、綱吉時代)東印度会社の一商船が長崎へ来て貿易拒絶を言ひ渡さ れた以来百三十五年間、曾て影を見せなかつた英船が、突然来航して長   さわが 崎を騒し、長崎奉行松平図書頭康英は自ら撃攘不行届の責任を負ふて切 腹し、其年警備当番であつた佐賀藩主肥前守斉直も、幕府より逼塞を命 ぜられた。更に文政元年(千八百十八年)五月には、英船一隻浦賀に来   ご し て互市を請うた。同七年(千八百二十四年)五月には、英船東海に隠見 し、其二十八日には、英人十二人常陸の大津浜に上陸して水戸の兵に捕 へられ、七月には、英船が薩摩の宝島に上陸し、発砲の上野牛を奪ひ去 つたといふ様に、初は北から露船のみ来たのであつたが、後には南から 英船迄も加はり、海警頻々として邦人の耳朶に響いたが、暁を覚えざる 程に深き春眠は、容易に生優しい警鐘の力位に覚めはせぬ。一時は覚め             たなび 相にもしやう。否、妖雲を揺曳かせて魔軍の襲来したかの様にも恐怖し                                やが て騒ぎもするが、それはホンの黒船の影の其処に見えて居る間の事、軅 て其影が水平線下に没し去ると、まだ寝足らぬ顔にも又も前夢を継ぐべ き昏睡に陥つて仕舞う。是が平八郎の生れた寛政から文化、文政、天保 に掛けての我国の状態であつた。












互市
貿易のこと


『民本主義の犠牲者大塩平八郎』目次/その9/その11

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