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ど う
然るに此時の将軍の胸中は如何であつたかといふに、家斉将軍も亦一
橋家より出でて宗家を嗣いだ事とて、其生父治斉を西ノ丸に移し大御所
とな こひねが
様と称へんと希ふたのであつたから、何とかして先づ叡慮に副ひ奉り、
なら
それに倣つて我家に及ばさん事を考へて居たらしかつた。それ故定信の
しつし
議は正論であるといつても、是が為に大奥並に一橋家の嫉視を招いた事
は尋常で無く、間も無く要路を去るの余儀無き運命に陥つたのも之に本
しづか げ のどか
づいたと聞く、誠に四海波静なる実にも長閑な春の空気では無いか。勿
あだなみ
論打寄する仇波の全く無いと云ふではなく、寛永の鎖国以来、我国民が
武陵桃源の夢を貪り見て居る間に露国の東方経略は歩武を進めて、千七
しむしゆ うるつ
百十三年、即ち元文元年の将軍吉宗時代には、其勢力は我占守以南、得
ぷろ こと/゛\ あま えとろふ
撫以北の千島諸島を尽く占拠し了り、剰す所は僅に択捉、国後の二島あ
しば/\
るのみといふ有様、其船舶は屡々我近海に出没したので、そろ/\外国
か
の事が憂国の志士の眼中に映じ初めた。彼の仙台の林子平が、海国兵談、
やき
三国通覧等の版木を取上げられ、焚棄てられて仕舞つたのは、寛政四年
五月の事であつたが、時の流は此の愚挙を嘲るが如くに移り去つて、程
ろ し あ
無く其冬の十月三日に、松前志摩守から、魯西亜船我漂流民二人を乗せ
て東蝦夷地に着し、是より江戸表に罷越すべき旨申立つるとの註進が来
か
た、是ぞ夫の露国の使節アダムスラツクスマンを載せた船で、正に是れ
青天の霹靂、幕府は鳩首評議の末、十一月十一日に目附石川将監忠房、
よしのり
村上大学義礼の二人を急派し、続いて沿海の諸侯に令して海防を厳重に
させた。翌五年の正月には、定信自ら宝船の絵に、七福神の見えぬ黒船
を描いて、上に「此船のよるてふことを夢の間も忘れぬぞ世の宝なりけ
いまし
る」と讃した事は有名な話で、彼は是を以て天下を警むると共に、自ら
其三月には豆相房総の海岸を巡し、江戸湾の防備を固めるに至つた。
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叡慮
(えいりょ)
千七百十三年
は正徳3年
元文元年は1736
吉宗の在位は
1716(享保元)〜
1745(延享2)
占守
(シュムシュ)
占守島は
千島列島の最北
端にある火山島
Остров
Шумшу
得撫
(ウルップ)
得撫島は
千島列島の中央部
Остров
Уруп
アダム・キリロヴィ
チ・ラクスマン
Адам
Кириллович
Лаксман
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