Я[大塩の乱 資料館]Я
2012.10.23

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「大塩の乱関係論文集」目次


『民本主義の犠牲者大塩平八郎』

その9

相馬由也

開発社 1919

◇禁転載◇

二、暴の前の大御所政治 (2) 管理人註
   

              ど う  然るに此時の将軍の胸中は如何であつたかといふに、家斉将軍も亦一 橋家より出でて宗家を嗣いだ事とて、其生父治斉を西ノ丸に移し大御所   とな こひねが 様と称へんと希ふたのであつたから、何とかして先づ叡慮に副ひ奉り、    なら それに倣つて我家に及ばさん事を考へて居たらしかつた。それ故定信の                          しつし 議は正論であるといつても、是が為に大奥並に一橋家の嫉視を招いた事 は尋常で無く、間も無く要路を去るの余儀無き運命に陥つたのも之に本             しづか   げ   のどか づいたと聞く、誠に四海波静なる実にも長閑な春の空気では無いか。勿      あだなみ 論打寄する仇波の全く無いと云ふではなく、寛永の鎖国以来、我国民が 武陵桃源の夢を貪り見て居る間に露国の東方経略は歩武を進めて、千七                           しむしゆ    うるつ 百十三年、即ち元文元年の将軍吉宗時代には、其勢力は我占守以南、得 ぷろ       こと/゛\      あま         えとろふ 撫以北の千島諸島を尽く占拠し了り、剰す所は僅に択捉、国後の二島あ              しば/\ るのみといふ有様、其船舶は屡々我近海に出没したので、そろ/\外国                    の事が憂国の志士の眼中に映じ初めた。彼の仙台の林子平が、海国兵談、                やき 三国通覧等の版木を取上げられ、焚棄てられて仕舞つたのは、寛政四年 五月の事であつたが、時の流は此の愚挙を嘲るが如くに移り去つて、程                     ろ し あ 無く其冬の十月三日に、松前志摩守から、魯西亜船我漂流民二人を乗せ て東蝦夷地に着し、是より江戸表に罷越すべき旨申立つるとの註進が来      た、是ぞ夫の露国の使節アダムスラツクスマンを載せた船で、正に是れ 青天の霹靂、幕府は鳩首評議の末、十一月十一日に目附石川将監忠房、     よしのり 村上大学義礼の二人を急派し、続いて沿海の諸侯に令して海防を厳重に させた。翌五年の正月には、定信自ら宝船の絵に、七福神の見えぬ黒船 を描いて、上に「此船のよるてふことを夢の間も忘れぬぞ世の宝なりけ                        いまし る」と讃した事は有名な話で、彼は是を以て天下を警むると共に、自ら 其三月には豆相房総の海岸を巡し、江戸湾の防備を固めるに至つた。







叡慮
(えいりょ)





千七百十三年
は正徳3年
元文元年は1736
吉宗の在位は
1716(享保元)〜
1745(延享2)

占守
(シュムシュ)
占守島は
千島列島の最北
端にある火山島
Остров
Шумшу
得撫
(ウルップ)
得撫島は
千島列島の中央部
Остров
Уруп





アダム・キリロヴィ
チ・ラクスマン
Адам
Кириллович
Лаксман


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