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こ ん
此様な話もある次第である。されば平八郎の密書の内容は、烈公の自
ら久しく思ひ煩へる所と吻合した点が多かつた事を想像し得べく、それ
かあらぬか、翌天保九年八月に、烈公は遂に思ひ迫つて、縷々一万六千
余言の長文の建議をされるに至つたが、其中には平八郎の檄文の内容と
相対照すべき妙味ある事実を多量に含んで居る、即ち其内憂に対する方
うち ふさが
策の中には、『第一上下り離隔は古今の痛弊なり、言路塞りて、上書建
白の道絶ゆれば、自ら有司と君主との間も疎くなり、奥向の婦人権を弄
するに至り、諸役人はいづれも賄賂を婦女に納れて、立身を図らんとす、
今や太平久しく打続きて、頗る其弊に堪へざるものなれば、大に言路を
洞開し、老中以下諸役人を台前に召して、評議を尽さしめ、以て宮女の
権を抑へざるべからず、且つ大名旗本中より、人才を抜擢して有司に任
まつりごと
じ、刷新の 政 を布く事肝要なり、第二、治に居て乱を忘れず、奢侈を
止め、士気を一新し(下略)、第三、農は国の基なれば、代官を選び、
かみ
農民を督して其業を励ましめ、公料の年貢を財政の基礎と定めて、上の
御手先をはじめ、奥向其他の費用を節し、且つ悪貨を改鋳して、物価の
こくど
騰貴を防がば、国帑の不足はあらざるべし、第五、諸役人等町人に党し、
賄賂によりて不正を行ふが故に、幕府の費用亦随つて増加す、宜しく之
ほうぎよ
を禁ずべし云々』とある。老中水野越前守が家斉将軍薨去の後に於て、
断然一大改革に着手したのは、此烈公の建言の力多きに居るといふが、
いきほひ
然らば平八郎の密書の内容と、而して彼の挙兵の刺激とが、又此勢を激
あなが
成せしめて力あつた事を、強ちに否定は出来ぬであらう。
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言路
上の者に対し
て、臣下が意
見を述べるた
めのみち
洞開
あけ放つこと
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