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更に思ひ合はす事は、同じ日記の十九日の條に見えるから、其前日頃
はたもと
の事かと思ふが、旗下の佐々木三蔵が、水戸の執政立原甚太郎を経て、
たてま
一封の書を烈公に上つて居る、此立原が東湖に話した所では、三蔵が、
『今度大阪騒動の事、未だ御老中欠席の事、其外宰相の君御心得に言上
致し度事あり云々』といつて此一通を差出したから、其まゝ上達したと
ある。それから二十一日に東湖が烈公に召されて出た所が、佐々木三蔵
が立原へ物語りたる幕府の人物某々の事を、何となく川路三左衛門へ承
り候へとの命があり、早速其日川路を訪うて、七つ(午後四時)から日
暮迄話して帰つた相で、更に翌三月五日に召されて、三蔵の書を見せら
れたが、中に説いてある事は『大阪町奉行を下転(左遷)せんよしと、
真田豆州幸貫(信州松代侯、佐久間象山の主君)を閣老に為したきとの
事なりき』と同じ東湖の日記に記してあるのだ、さらぬだに、烈公は幕
政の衰頽を憂ひ居られた事とて、此様な建言に接しては、如何様に考へ
か
られたであらうか、是より前、已に前年九月の事である。烈公は、彼の
矢部駿河守の蹉跌の禍因となつた、両丸移変への式に、矢部と同一精神
から反対の意見を持たれ、登営の折に老中等を呼んで、其非を論ぜられ
たが、老中等は其座で何の答もなかつたに拘らず、其後水戸の家老中山
備前守に申伝へて、以後は、営中にて唐突の議論を為されまじき様心得
つぐ
られよといつて来たといふ、烈公は余儀なく口を噤んで居られたが、天
とほざ
保八年三月廿七日の午後四時過ぎ、急に東湖を台御庭に召し、近臣を遠
かううん
けて、自ら小高き丘にと上り、賤しき者の耕耘の様を、見遥かし乍ら、
か さま
唯ならぬ雲の行き交ひ、南北風の吹き変り様、陰雨の様、冷気の様等を
心附かれ、去年の凶荒に引続いて、今年も亦不作なり、天下の民は如何
ばかり苦まんと思へば、胸迫りて、安んじ難し、されば公辺にも、定め
まつりごと
し救荒撫民の 政 あるべしと思ひの外、奢侈の風、日に長じ、来る四月
初に両丸御移変の式あり、九月には将軍宣下あるべき由。定めて天下諸
侯、幾巨万の財用を費すであらう。さればこそ云々と、去年九月の営中
の議論の事ども語り出され、今日迄黙々したが、此頃の気候といひ、大
阪の騒擾の事など思へば、片時も黙しがたいによつて、明日子時に登城
し、老中共を残らず呼び集め、十分に国家の事を論じて、倹素に返し、
中興一新の説を述べんと思ふが、汝の思ふ所如何、と問はれ、東湖は如
何にも御尤と申さんとは思へど、幕府には、烈公を忌むもの多く、不時
の登城は其意見の行はれぬのみならず、危険も多しと気附いて思ひ返し、
つぶ
時勢人情などゝ備さに言上したら、烈公は自らも左は思へど、知つて言
はざるは不忠と思ふ迄にとの事、けれども登城は彼等が差止むるであら
う。止めぬ迄も我意見が行はれねば、申述べても詮の無い事、兎も角、
かしこ
汝の知り合へる川路三左衛門に謀り見よとあり、東湖は命を畏み、川路
に謀つた所、今は昔と事変り、三家の不時の登城は絶え果て居るから如
何あらん、大久保加州(忠真)、世にありし日は、正道も聊か取用ひら
れた事もあつたけれども、加州も身まかりし後は、兎角の論にも及ふま
じ、といつたといふ。
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藤田東湖
「丁酉日録」
その27
「丁酉日録」
その28
翌日は
二十二日
「丁酉日録」
その10
横山健堂
「大塩平八郎」
その10
「丁酉日録」
その10
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