Я[大塩の乱 資料館]Я
2013.4.12

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「大塩の乱関係論文集」目次


『民本主義の犠牲者大塩平八郎』

その116

相馬由也

開発社 1919

◇禁転載◇

十六、叛逆か大不敬か (4) 管理人註
   

   かく     おもむ  予は此の如く徐ろに平八郎の心事を考へて見ると、矢部駿河守が東湖 に語つて、『平八郎は叛逆人と雖も、駿河守が案には、叛逆とは不存       ことば さたん 候』といつた語に左袒せざるを得ぬ、駿河守は扼腕して尚ほ言つた、                          ひそか 『人心の霊、愚夫愚婦迄も、今に平八郎様と称するは、陰に其徳を仰ぐ にあらずや、されば駿河守、其事を仕置せんには、却て平八郎年来の忠 憤はさることながら、憤激のあまり、其跡叛逆に等しきことを仕出した るは、上をも不畏大不敬といへる事にて、裁判せば、平八郎死せりと いへども、甘んじて其罪を受け、又大阪の人心をも圧倒すべし』と、実                      よく に駿河守は、平八郎の人物をば、表裏打返して能見抜いて居ると思ふ、 駿河守は平八郎を『肝癪の甚しき者なり』ともいひ、此処にも『憤激の あまり』といつて居るが、是は前に述べた通り、彼の挙兵は必ず乱心の 結果でなく、大事を決した後、自ら顧みて理性の是認を得たとは思ふけ れども、其猛然として飛んで火に入る夏の虫の覚悟を定めた動機は、慥 に其所謂『憤激』にあつたであらう。            いかり  尤も平八郎自身も平生怒に就いては相応の修養があつたので、王震沢                   ことば の『怒りて怒らず、己れに留めず』との語を引き、『心虚に帰すれば、   おそれ              あた         か 怒と懼と亦天理なり、所謂発して節に中る者なり、此くなれば無かるべ からざる也』といひ、怒つて怒らずで、怒つても自己の心に留めなけれ                      わだかま ば宜しい、心が太虚に帰して至公至平、一点の蟠りが無いならば、怒ら うと懼れやうと、共に天理だから構つた事はない、要するに、怒るべき に怒り、怒るべからざるに怒らぬ、それが『発して節に中る』といふも ので、斯うさへあるなら、怒も懼れも共に大切で、無くてはならぬもの                    しんき だとの意味である。是は平八郎自身の為の箴規とも見るべく、又思ひ様 によつては、其癇癪の弁護とも見られるが、『怒つて怒らず、己に留め ず』といふ点だけは間違なくとも、彼の怒りが、果して其説の如く、発     あた して節に中つたものであらうか、是は聊か疑問である。否、平八郎は更 に『慶雲鳴雷、凄風和気、皆是れ太虚の象にして、常に有らず、然れど も、時有りて出づ、喜怒哀楽は皆是れ人心の情にして常に有らず。然れ ども時有りて起る。故に喜怒哀楽は、便ち是れ天の慶雲鳴雷、凄風和気                 これ にして、慶雲鳴雷、凄風和気は便ち是人の喜怒哀楽也、元と是れ二なら ず、然り而して、人太虚に帰せず、喜怒哀楽、情に任せて起滅せば、徳                  ひとり を亡し、身を喪ふの基也、故に君子は独を慎み、太虚に帰するを惟是れ 之を務む、是を以て喜怒哀楽の境に当つて、尤も忍んで軽々しく起たず』      いやしく                   あたか と称し、心苟も太虚に帰せば、喜怒哀楽あるを妨げぬ事、宛も天に時あ りて、慶雲鳴雷、凄風和気の有る如くにも考へた如く、前の帰太虚説を 一層明確にして居るが、其『是を以て喜怒哀楽の境に当つて、尤も忍ん             ことば で軽々しく起たず』といふ語に続けて、『吾の如きは之に反す、宜しく 慎むべき也』といつて居るのは、彼も亦自己を知つて居るものと見るべ きでる。



桜庭経緯
「矢部駿州と大塩平八郎左袒
賛意を表すこと














































箴規
よくない点を
指摘し、正し
い方向を示す
こと





『洗心洞箚記』
その62

慶雲
めでたいしるし
の雲


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