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併し平八郎も敢て自ら『予の山陽と善くする者は、其学に非ず』とい
ひ居る如く、二人の交誼は寧ろ全く意気投合の点に在るのであつたらう、
山陽は平八郎から陽明全集を借りて一読して居るが、其王文政公集を読
リ ル ク メヨ ズルヲ ハ ブ キヲ ノ
む、と題した詩には『為儒為仏姑休論。 吾喜文章多古声。北地粗
ノ ク ス ノ ニ
豪歴城険。尽輸講学老陽明。』といつて居る丈だ、其の詩意を尋ぬる
に、儒ぢやの仏ぢやの其様な議論は暫く預りとしてだ、我輩は其文章に
古趣の多い点が気に入つたよ、支那北部の粗豪な気質や歴城の険峻な地
勢が、自然に講学の老陽明の頭に影響しとるんだと。斯うだ、なんと極
あつけ うが
めて飽気ないものでないか。是では陽明の陽明たる所を幾干の度に迄穿
うつちや
ち得たか、陽明学と仏説との異同をも打棄らかして喋つて居る磊落振を
こ ん
見ると、頗る疑はしい。それ故平八郎にして、若し此様な学問方面から
かつ
のみ山陽を信じたとするなら、頗る担がれ気味にも疑はざるを得ぬのだ
が、それは彼自身の説く所の如く『学に在らず』であらう。平八郎が山
わが
陽を論じて『我を知る者は我心学を知る者也、我心学を知らば、未だ箚
記の両巻を尽さずと雖も而かも猶之を尽すが如くし』といつて居るのは、
必ずしも宋儒の心学とか、性理の学とかいふ広義に解すべきものでなく
て、唯一平八郎の心の学と解するが至当なるべく、従つて二人相対酌し
て胸襟を開き居る間に黙識し得た御互の心境の直覚をいふのであらう。
手ツ取り早く言ふならば、人生意気に感ずといふ、其意気に於て、二人
こうしつ
は膠漆も啻ならざる交情の絆を結び附けたものと信ずる、山陽と雖も、
平八郎に比すれば、まだ幾分人間が練れて居り、融通も今少しは利いた
と思ふ。けれども山陽は男子たるの真骨頭を喪失する事なく、如何なる
場合にも自家の一地歩を踏み占めて居た、此点に於て他の一斎一派の凡
俗とは大に径庭がある、例へば彼は徳川氏の血縁なる河越侯に依つて外
たてま うち
史を世に公にして居るが、同侯に上つる書の中にしても、徳川氏に対す
る忌諱を避くるに甚だ功妙なる辞令を用ひ、『今日無前之功徳、言ふを
ゆ いつ
待たざる者有り、又敢て喋々頌賛し、人をして其諛と溢とを疑はしむる
を欲せず。自ら謂ふ敬の至也』といつて居るが、而かも其初には自己胸
せんめい たがひ
中の微旨を闡明して、『夫れ右族迭に興り、甲起り乙倒れ、以て海宇の
沿革を成す、而して必ずしも王室に関せざるは我中世以還の国勢也、故
はじ あら
に実に依つて体を創め、以て世変を形はし、而して其中貫くに帝系の年
か
号を以てし、以て條理を表す、大義の繋かる所に至れば、必ず特書を用
まじ
ひ、権豪を元帥に厠へ、成敗に随つて次第すと雖も、而かも署題に因つ
さいぜん
て、以て統属を見ず、而して之を事実に裁し、名分截然、読者自ら能く
之を見ん』とある。是が其山陽の山陽たる所であつた。然るに山陽は彼
に先立つて没す、平八郎の境中の寂寞や、又自ら想像し得べく、彼は必
あたか
ずや生口多き日本国内を視ること、宛も無人の大曠野の如き観があつた
ものとも想像する。然らば彼が一方私塾に於て学徒を率うる以外に、自
己の思想を永く後世に伝へ、後世彼の志を継いで、大に興るものあるを
み
期待するの念、益々旺盛なるを致したであらうと想ふ。此の如く観来れ
ば、彼がその箚記を此山陽没する年の七月に、富士の石室、並に伊勢外
宮の宮崎、林崎の両文庫に納めた心事に想到して、感慨無量なるものが
ある。彼の足代弘訓が、評定所の吟味に於て、初め平八郎が後唐の明宋
なら
の遺志に倣ひ、箚記を朝熊嶽に焼き棄て呉れよといつた話を為し、奇怪
の申分、発狂したのではないかと思ひ、其後往復も打絶えたといつて居
るが、是が彼れ自らを欺からざる告白とすれば、弘訓の如きは昧者にし
て平八郎の此時の胸中を洞知する事が出来なくて済んだものと思ふ。
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『洗心洞箚記』
その36
膠漆
離れがたいほど
親しい間柄のた
とえ
径庭
懸隔
闡明
はっきりとあ
らわすこと
権豪
権力者
統属
統制の下に属
すること
截然
区別がはっき
りしている
境中
胸中か
昧者
おろかもの
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