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此山陽は天保三年の初夏四月に、平八郎を大阪の屋敷に訪ひ、平常の
如く青眼相対し、酒杯を執て、雑談に耽つたが、其時彼は平八郎に向ひ、
足下の学問は心を洗つて内に求むるんだが、僕の学問は、外に求めて、
たくは
内に儲へ、それを繰出して詩文にするんだから、丸で反対の様だけれど
も、一つ足下の古本大学刮目の原稿を見せて貰はうかといふ、宜しいと
こ
いふので、それを見せると、山陽は其綱領だけ見て仕舞つて、是りや一
家言では無い、昔儒の格言の府だ、僕は不才だけれど、之に序文をせや
うち
うかといふ、平八郎は何れ其中に御頼みしやうといひ、又未だ版にせぬ
箚記を若干條だけ出して見せたが、山陽が之を取つて読み掛け、半分程
うち
にもいかぬ中に日がトツプリと暮れた、そこで罷めていふには、いづれ
ゆ
上木の後に悠つくり批評するとしやうが、今一見した丈の條々に就いて
言へば、聖人の奥を究めて、間然する所が無い、深く此太虚説には服し
いづ かんだん
たよ、と快く話して別れたといふ、何くんぞ知らん、此一夕の談が、
遂に永久の死別とならうとは。山陽はそれより間もなく、持病の肺患の
な
為に、其秋京都で没くなつた。其時の事を、平八郎は字々血涙を以て実
かく しる あらた
に斯の如く記して居る、『山陽血を吐きて、病革まると聞き、吾上洛し
さく か
て、以て其家に至れば、其日既に簀を易ふ、大哭して帰る。夢の如く、
さき しやうしゆ
幻の如し、往事を追思するに、向に山陽の余を觴酒の際に訪ふや、其情
けんけん
之綣たる、果して永訣の兆なりし歟、鳴呼傷ましい哉、悲いかな』と、
か
彼の山陽を惜むの情は、実に尋常と思はれぬ、彼は更に『今山陽をして
命の延べて在らしめ、箚記両巻を尽さしめば、彼に益せずとも、必ず我
に益する者、蓋し亦少からざりしを、唯だ是れ余が一生涯の遺憾なる而
已矣』ともいひ、而して此箚記の附録には、箚記を読んだ者の、それに
対する評をのみ収録したのであつたが、箚記の上木された天保の春には、
最早や山陽は泉下の人だから、其評を収録するに由ない、そこで例外と
して、山陽の分だけは、前から話した其序と詩六首とを入れた、茲に引
そ
いた自記とは、平八郎が其申訳の為に箚記の附録に自ら書き副へたものゝ
事である。其辺にも山陽を惜むの情の熱烈さをも見る。
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『洗心洞箚記』
その35
間然
欠点をついて
あれこれと批
判・非難する
こと
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