Я[大塩の乱 資料館]Я
2012.10.28

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「大塩の乱関係論文集」目次


『民本主義の犠牲者大塩平八郎』

その14

相馬由也

開発社 1919

◇禁転載◇

三、忠成時代の悪政と豪奢 (1) 管理人註
   

 定信退隠の後と雖も、まだ彼に因つて挙用された本多忠籌、加納久周、                      しきやう 松平信明、堀田正敦、阿部正精等の在るあり、鴟梟は未だに翔するを 得なかつたのであつたが、家斉将軍は必ずして凡庸の資質で無く、某侯              かな よりの献上で、特の外御意に副つた大きな鶏冠石の置物をば、或る疫病 流行の年に、鶏冠石が疫病除けになるといふ事を聞知つて居つて、近侍 の者に分与したとか、林肥後守が御側用人を仰付られて、翌日登城する 時に、其忍耐の器量を試みんとして御小姓頭松平大膳亮に命じ、唾吐き かけさせたとかいふ逸話さへある性格、其初政に於ては大に定信に任じ                やゝ            おのづか て治績を挙げもしたけれども、功稍成り、志稍満つると、人は自ら驕慢 に流れ易きもの、特に生父一橋穆翁の我儘に誘致されて、之を禁ずる事 が出来ず、寛政より文化迄は兎に角政治向に大過はなかつたけれども、 最早文政に至ると、折角定信よつて張られた紀綱がスツカリ弛解し、夜                はぶし つよ の動物なる鴟梟が真昼間に現れて羽節勁く翔け廻る様になつた。それが 皆一橋と脈を引き合つて居る。





鴟梟
ふくろうの別名
凶悪な者をたと
えていう語














一橋穆翁
徳川治済
(1751-1827)


『民本主義の犠牲者大塩平八郎』目次/その13/その15

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