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定信退隠の後と雖も、まだ彼に因つて挙用された本多忠籌、加納久周、
しきやう
松平信明、堀田正敦、阿部正精等の在るあり、鴟梟は未だに翔するを
得なかつたのであつたが、家斉将軍は必ずして凡庸の資質で無く、某侯
かな
よりの献上で、特の外御意に副つた大きな鶏冠石の置物をば、或る疫病
流行の年に、鶏冠石が疫病除けになるといふ事を聞知つて居つて、近侍
の者に分与したとか、林肥後守が御側用人を仰付られて、翌日登城する
時に、其忍耐の器量を試みんとして御小姓頭松平大膳亮に命じ、唾吐き
かけさせたとかいふ逸話さへある性格、其初政に於ては大に定信に任じ
やゝ おのづか
て治績を挙げもしたけれども、功稍成り、志稍満つると、人は自ら驕慢
に流れ易きもの、特に生父一橋穆翁の我儘に誘致されて、之を禁ずる事
が出来ず、寛政より文化迄は兎に角政治向に大過はなかつたけれども、
最早文政に至ると、折角定信よつて張られた紀綱がスツカリ弛解し、夜
はぶし つよ
の動物なる鴟梟が真昼間に現れて羽節勁く翔け廻る様になつた。それが
皆一橋と脈を引き合つて居る。
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鴟梟
ふくろうの別名
凶悪な者をたと
えていう語
一橋穆翁
徳川治済
(1751-1827)
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