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かうおう
大体穆翁の長男豊千代を納れて十代家治将軍の養子とし、其世子に立
しなだま
てたのは、継嗣斡旋の労によつて一橋と結び、将軍を弄玉にして永く幕
ばつこ は ら
閣に跋扈せんと謀つた田沼意次の肚裏に出た事だから、此点から考へれ
ば、家斉将軍は其生れ様から已に悪い星に呪はれたのだ。意次は其弟の
おきなり から
意誠を一橋の家老に納れて、一橋の事は我方寸の中で自由になる様に機
く ねいじゆ
関つてある。そこに又砂糖に慕ひ寄る蟻の様な松平出羽守忠友なる佞豎
があつて、媚を意次に納れ、其子忠徳を養つて子と為して親戚関係を結
は
び、其御蔭を以て遂に沼津の城主と為り、三万石を食み、老中に迄進ん
だ。ところが当て事と越中物とやらで、予期に違ひ、其後意次の積悪露
へんちつ きたな さうくわう
顕し、急転直下の貶黜となるや、彼は怯くも倉皇として其養子忠徳を離
とおざ
縁し、自ら累を絶たんと謀つたが力及ばず、一時は共に要路より遠けら
ふたゝ
れたけれども、何しろ強大なる一橋の勢力と結んで居る為に、彼は復び
たゞかず
寛政九年に至つて甦つて老中となつたから、是より本多忠籌、加納久周
まさよし
等の廉直の人々は前後して去り、松平信明、阿部正精、堀田正篤等、猶
ほ留まつて定信の旧制を守り、画一の政治を施して居たけれども、其最
ずゐくん
も気骨ある信明も亦、享和三年に隠退せなければならなくなつた。瑞君
徳行記を見ると、「伊豆殿先年退役は大君一橋殿を二ノ丸へ入れ申せと
の上意の処、一向御請不被申、再応上意ありても御請無之故、平岡
美濃守御請をと申さる。大君には御面色替りけれども伊豆守殿御請不
被申、当時は大納言にも昇られ候は、十分の御家栄と奉存旨御請なり、
大君には御無言にて奥へ入らせらるゝを高井飛騨守御裾を取り、是非御
挨拶々々々と申上られ、不得止事御考へ可被遊との上意にてあり」
し云々。光景躍如、如何に将軍が穆翁を西ノ丸に納れて大御所様扱ひに
しやうとしたが、それを信明が強項にして承知せなかつたかゞ、歴々と
しばゐ
演劇を見る如くに知れる。
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弄玉
ろうがん
品玉のことか
手品や奇術
の類
佞豎
こびへつらう
者を卑しめて
いう語
強項
容易に屈伏し
ないこと
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