Я[大塩の乱 資料館]Я
2012.10.29

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「大塩の乱関係論文集」目次


『民本主義の犠牲者大塩平八郎』

その15

相馬由也

開発社 1919

◇禁転載◇

三、忠成時代の悪政と豪奢 (2) 管理人註
   

   かうおう  大体穆翁の長男豊千代を納れて十代家治将軍の養子とし、其世子に立                         しなだま てたのは、継嗣斡旋の労によつて一橋と結び、将軍を弄玉にして永く幕   ばつこ            は ら 閣に跋扈せんと謀つた田沼意次の肚裏に出た事だから、此点から考へれ ば、家斉将軍は其生れ様から已に悪い星に呪はれたのだ。意次は其弟の おきなり                             から 意誠を一橋の家老に納れて、一橋の事は我方寸の中で自由になる様に機 く                              ねいじゆ 関つてある。そこに又砂糖に慕ひ寄る蟻の様な松平出羽守忠友なる佞豎 があつて、媚を意次に納れ、其子忠徳を養つて子と為して親戚関係を結                         は び、其御蔭を以て遂に沼津の城主と為り、三万石を食み、老中に迄進ん だ。ところが当て事と越中物とやらで、予期に違ひ、其後意次の積悪露         へんちつ       きたな   さうくわう 顕し、急転直下の貶黜となるや、彼は怯くも倉皇として其養子忠徳を離                              とおざ 縁し、自ら累を絶たんと謀つたが力及ばず、一時は共に要路より遠けら                                ふたゝ れたけれども、何しろ強大なる一橋の勢力と結んで居る為に、彼は復び                          たゞかず 寛政九年に至つて甦つて老中となつたから、是より本多忠籌、加納久周                       まさよし 等の廉直の人々は前後して去り、松平信明、阿部正精、堀田正篤等、猶 ほ留まつて定信の旧制を守り、画一の政治を施して居たけれども、其最                               ずゐくん も気骨ある信明も亦、享和三年に隠退せなければならなくなつた。瑞君 徳行記を見ると、「伊豆殿先年退役は大君一橋殿を二ノ丸へ入れ申せと の上意の処、一向御請不被申、再応上意ありても御請無之故、平岡 美濃守御請をと申さる。大君には御面色替りけれども伊豆守殿御請不 被申、当時は大納言にも昇られ候は、十分の御家栄と奉存旨御請なり、 大君には御無言にて奥へ入らせらるゝを高井飛騨守御裾を取り、是非御 挨拶々々々と申上られ、不得止事御考へ可被遊との上意にてあり」 し云々。光景躍如、如何に将軍が穆翁を西ノ丸に納れて大御所様扱ひに しやうとしたが、それを信明が強項にして承知せなかつたかゞ、歴々と しばゐ 演劇を見る如くに知れる。




弄玉
ろうがん
品玉のことか
手品や奇術
の類





佞豎
こびへつらう
者を卑しめて
いう語



































強項
容易に屈伏し
ないこと


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