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而して此年将軍にも亦大政大臣に昇進の宣下があつた。是は家康の贈
くらゐ
大政大臣以外に全く先例のない事で、実に位山の頂上を登り尽した次第、
之を以て多幸といふならいふ可し、去り乍ら已に明和年中に於て山縣大
しようどう
貳、武内式部等の疑獄あり、勤王論の第一声が天下の耳目を聳動した余
ひでざね
響は、高山彦九郎正之、蒲生君平秀実等の心臓に伝はり、波動は次第に
こんぱらくわ ねん
大なる輪を画いて、金波羅華の一拈を待つ迄も無く、胸を以て胸に伝へ、
目を以て目に伝へて、次第に心有る民衆の間に弘まりつゝあるを知るや
ぼうだ
知らずや、正之が三條橋頭に流した滂沱たる涙脈は、実に九代将軍家治
の日光御社参の盛儀を見て、禁裏の荒廃に似も着かぬ豪奢を憤つた際に
動き初めたといふではないか。然らば家斉としては盛名の下に立たざる
けんよく
を覚悟し、勉めて謙抑自ら持せなければならぬので、好しや其拝辞が難
かつたとしたとても、益々驕泰を戒めて、衆目の嫉視を避けてこそ、聡
ようへい
明と言はるべきであつたのに、群小に壅蔽されてか、其聡明は晩年に暗
ふ さ
み了り、益々大政大臣に相応はしき、所謂大御所様時代の栄華振を発揮
した跡が見える。
試に五月雨草紙の一節を引かんに、「文化文政の頃ろは上にも方々様
多く在らせられたる故、お菓子製法の用とて一日に白砂糖千斤づつ費さ
れたり、其時御膳番掛りの人の評議に、如何に将軍家にても、砂糖一日
に千斤を費さば、一年に積りて三十六万斤なれば、余りに仰山なり、因
て実際見聞致すべしと申たるに、御膳所の者共は、如何にも御見分受け
申すべしと答へたれば、一日立合ひたるに、大なる半切桶に砂糖三百斤
かき まじ
程入れ。水を沢山汲み入れ、白木の棒にて撹立見て、此砂糖は砂多く雑
り、御用に成り兼たるが、夫にても用ひ苦しからざるやと申すに付、御
膳番答へて、砂雑りし御品は御用に成るまじと答へたれば、又跡の砂糖
を其如くし、都合三度に及び、初て此砂糖ならば宜しと申たるが、其砂
おほい
雑りと申立たる品は皆桶を覆して棄て去りしかば、御膳番の衆も大に呆
れて、以来見分に及ばず、是迄通りにあるべしとて止みたり、是は賤臣
しわざ わづらは
等が為に出たる所なれど、盛徳を累してお驕奢に過たるを評せしむに足
ばうふら
る」とある。此砂雑り砂糖は、常に流し尻の孑孑が頂戴する事かは詮議
の限であるまい。如何に「方々様多く在らせられたる故」とて、一日千
らん
斤は甚だ多きに過ぎる。此等は詰らぬ台所の話だが、一臠と雖も牛肉の
味は牛肉の味、豚肉の味は豚肉の味と知れる、是でも当時の奢侈の一斑
が窺はれやうでないか。
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家斉が大政
大臣になっ
たのは
文政10年
(1827)
聳動
驚かし動揺
させること
金波羅華
(こんぱらげ)
金色の蓮の花
滂沱
涙がとめども
なく流れ出る
さま
謙抑
へりくだって
控えめにする
こと
壅蔽
ふさぎおおう
こと
五月雨草紙
幕府医官
喜多村直寛
(1804-76)
の随筆
一臠
(いちれん)
肉などのひと
きれ
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