Я[大塩の乱 資料館]Я
2012.10.31

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「大塩の乱関係論文集」目次


『民本主義の犠牲者大塩平八郎』

その17

相馬由也

開発社 1919

◇禁転載◇

三、忠成時代の悪政と豪奢 (4) 管理人註
   

 而して此年将軍にも亦大政大臣に昇進の宣下があつた。是は家康の贈                    くらゐ 大政大臣以外に全く先例のない事で、実に位山の頂上を登り尽した次第、 之を以て多幸といふならいふ可し、去り乍ら已に明和年中に於て山縣大                            しようどう 貳、武内式部等の疑獄あり、勤王論の第一声が天下の耳目を聳動した余                ひでざね 響は、高山彦九郎正之、蒲生君平秀実等の心臓に伝はり、波動は次第に          こんぱらくわ     ねん 大なる輪を画いて、金波羅華の一拈を待つ迄も無く、胸を以て胸に伝へ、 目を以て目に伝へて、次第に心有る民衆の間に弘まりつゝあるを知るや                 ぼうだ 知らずや、正之が三條橋頭に流した滂沱たる涙脈は、実に九代将軍家治 の日光御社参の盛儀を見て、禁裏の荒廃に似も着かぬ豪奢を憤つた際に 動き初めたといふではないか。然らば家斉としては盛名の下に立たざる         けんよく を覚悟し、勉めて謙抑自ら持せなければならぬので、好しや其拝辞が難 かつたとしたとても、益々驕泰を戒めて、衆目の嫉視を避けてこそ、聡                  ようへい 明と言はるべきであつたのに、群小に壅蔽されてか、其聡明は晩年に暗             ふ さ み了り、益々大政大臣に相応はしき、所謂大御所様時代の栄華振を発揮 した跡が見える。  試に五月雨草紙の一節を引かんに、「文化文政の頃ろは上にも方々様 多く在らせられたる故、お菓子製法の用とて一日に白砂糖千斤づつ費さ れたり、其時御膳番掛りの人の評議に、如何に将軍家にても、砂糖一日 に千斤を費さば、一年に積りて三十六万斤なれば、余りに仰山なり、因 て実際見聞致すべしと申たるに、御膳所の者共は、如何にも御見分受け 申すべしと答へたれば、一日立合ひたるに、大なる半切桶に砂糖三百斤                    かき           まじ 程入れ。水を沢山汲み入れ、白木の棒にて撹立見て、此砂糖は砂多く雑 り、御用に成り兼たるが、夫にても用ひ苦しからざるやと申すに付、御 膳番答へて、砂雑りし御品は御用に成るまじと答へたれば、又跡の砂糖 を其如くし、都合三度に及び、初て此砂糖ならば宜しと申たるが、其砂                              おほい 雑りと申立たる品は皆桶を覆して棄て去りしかば、御膳番の衆も大に呆 れて、以来見分に及ばず、是迄通りにあるべしとて止みたり、是は賤臣   しわざ           わづらは 等が為に出たる所なれど、盛徳を累してお驕奢に過たるを評せしむに足                     ばうふら る」とある。此砂雑り砂糖は、常に流し尻の孑孑が頂戴する事かは詮議 の限であるまい。如何に「方々様多く在らせられたる故」とて、一日千                          らん 斤は甚だ多きに過ぎる。此等は詰らぬ台所の話だが、一臠と雖も牛肉の 味は牛肉の味、豚肉の味は豚肉の味と知れる、是でも当時の奢侈の一斑 が窺はれやうでないか。


家斉が大政
大臣になっ
たのは
文政10年
(1827)

聳動
驚かし動揺
させること

金波羅華
(こんぱらげ)
金色の蓮の花


滂沱
涙がとめども
なく流れ出る
さま



謙抑
へりくだって
控えめにする
こと


壅蔽
ふさぎおおう
こと




五月雨草紙
幕府医官
喜多村直寛
(1804-76)
の随筆





























一臠
(いちれん)
肉などのひと
きれ


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