Я[大塩の乱 資料館]Я
2012.11.1

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「大塩の乱関係論文集」目次


『民本主義の犠牲者大塩平八郎』

その18

相馬由也

開発社 1919

◇禁転載◇

三、忠成時代の悪政と豪奢 (5) 管理人註
   

 又料理は文政に至つて俄に贅沢になり、其前迄は坊間に行はれた料理              さつまいも 本でも、或は豆腐百珍、或は甘藷百珍といつた類で、豆腐や甘藷の料理 法位のものに止まつたが、文政に至ると、亀山鵬斎の序文のある八百善 通なるものが出来、高尚な料理がそれに沢山記されてある。此八百善の                           こと 料理に関して驚かるゝ話には、是も文政の末頃の事だが、特に外権威が       もてはや あつて、世に持囃された奥右筆頭に船橋勘左衛門なるものがあり、或る 時夜食の料にとて八百善の料理切手を送られた。其後幾日かを経て、一 寸用向あり、用人を浅草辺にやつたが、戻りが遅くならうからとて気を                   くだん 利かせ、是を以て支度してこよといつて件の料理切手を与へた、すると                ひま 其者は大喜び、幸ひ其日は同役も閑で居るから一所に連れて行きたいと 願つて許しを得、扨、用向を済ませて八百善へ立寄り、其切手を出して             かかう 酒肴を持運ばせたが、珍味佳肴が所狭く並んで、尚ほ其上にも次々に出         けんたん る。両人は対酌し健啖したが、最早や満腹して此上は食べられぬまゝに、 立上つて帰らうとした所が、帳場の者のいふには、まだ追々出来ますけ れども、数多の品で急には参りませぬ。御帰りとありますから致方あり ませぬ。出来た分だけは御土産に遊ばし、残りの分は金子で御持帰りを 願ひましてはといふ。宜しい様にと答へると、左らばといつて持たせて 寄越したものは、御膳籠一個に食物一杯詰めたものと、金子十五両とで あつた、用人も呆れ果て、帰つて主人に逐一物語つた所が、勘左衛門も 驚いて、夫れ程の手厚き品とも心得なかつたから、其方に遣はしたが、 贈つた人には気の毒であつたといつた。何でも五十両余の切手であつた らうといふ話である。是は当時の贅沢と賄賂公行の有様とを併せ見る事 の出来る絶好例証でないか。


坊間
町の中、市中


亀山鵬斎
(1752〜1826)
江戸後期の儒
学者

八百善
江戸時代に会
席料理を確立
した料亭、
文政期の四代
目栗山善四郎
は、当世一流
の文人墨客と
交流


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