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又料理は文政に至つて俄に贅沢になり、其前迄は坊間に行はれた料理
さつまいも
本でも、或は豆腐百珍、或は甘藷百珍といつた類で、豆腐や甘藷の料理
法位のものに止まつたが、文政に至ると、亀山鵬斎の序文のある八百善
通なるものが出来、高尚な料理がそれに沢山記されてある。此八百善の
こと
料理に関して驚かるゝ話には、是も文政の末頃の事だが、特に外権威が
もてはや
あつて、世に持囃された奥右筆頭に船橋勘左衛門なるものがあり、或る
時夜食の料にとて八百善の料理切手を送られた。其後幾日かを経て、一
寸用向あり、用人を浅草辺にやつたが、戻りが遅くならうからとて気を
くだん
利かせ、是を以て支度してこよといつて件の料理切手を与へた、すると
ひま
其者は大喜び、幸ひ其日は同役も閑で居るから一所に連れて行きたいと
願つて許しを得、扨、用向を済ませて八百善へ立寄り、其切手を出して
かかう
酒肴を持運ばせたが、珍味佳肴が所狭く並んで、尚ほ其上にも次々に出
けんたん
る。両人は対酌し健啖したが、最早や満腹して此上は食べられぬまゝに、
立上つて帰らうとした所が、帳場の者のいふには、まだ追々出来ますけ
れども、数多の品で急には参りませぬ。御帰りとありますから致方あり
ませぬ。出来た分だけは御土産に遊ばし、残りの分は金子で御持帰りを
願ひましてはといふ。宜しい様にと答へると、左らばといつて持たせて
寄越したものは、御膳籠一個に食物一杯詰めたものと、金子十五両とで
あつた、用人も呆れ果て、帰つて主人に逐一物語つた所が、勘左衛門も
驚いて、夫れ程の手厚き品とも心得なかつたから、其方に遣はしたが、
贈つた人には気の毒であつたといつた。何でも五十両余の切手であつた
らうといふ話である。是は当時の贅沢と賄賂公行の有様とを併せ見る事
の出来る絶好例証でないか。
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坊間
町の中、市中
亀山鵬斎
(1752〜1826)
江戸後期の儒
学者
八百善
江戸時代に会
席料理を確立
した料亭、
文政期の四代
目栗山善四郎
は、当世一流
の文人墨客と
交流
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