更に其時代の婦人の風俗を見るに、徳川の栄華といへば元禄といふ、
其元禄では婦人の帯幅が絹幅二つ折の五六寸、袖丈八寸で有つたものを、
文化に至ると帯幅が七八寸、袖丈が一尺一二寸になつて居たといふ、又
とこみせ
三馬の「浮世床」、床店で往来の評判話に、「ハゝア紫縮緬に帯が八石
織」、「つむりの上がざつと卅両、櫛がばらふで簪が今風二本、うしろ
ざしが少し流行におくれたけれど、甲はけつこう」、此の甲は鼇甲に引
た ぼ
掛けたのだらう、それを美女だ、亭主持が娘つ子など評し居る所へ、又
すが もみ
通り縋る美人を認めて、「あれ/\又来た、ハハアお屋敷だの」、「紅
うら いゝ
裏の惣模様きり・しやんとして又好の」云々。文化頃の女の姿が描いた
様である。
男とて同じ事、同じ文化頃の風俗を写した鯉丈の八笑人を見るに「紐
を取つてくる/\とふり廻す後へ黄八丈に七つ襟の小袖、緋ごらうの帯
へ
を〆め。朱の二重緒のせつたをはき、耳のたこのある大若衆、うつかり
来かゝる横顔へ、彼古わらじをボンと当れば」云々、又八人の道化共が
忠臣蔵五段目の趣向で茶番をやる、其下稽古の処に、「ヲヲイ/\親父
どの、最前から呼んで居るのに、こなたの耳へははいらぬのか、トやる
のだが、それは昔風で大じまのどてらに丸ぐけをしめて、山岡頭巾をか
せりふ
ぶつた拵への詞、近年は黒羽二重に緋はかたの帯、蛇の目の傘といふ、
いきにすごいこしらへでいきやすから、それ詞も今風に、ヲイおとつさ
ん/\としやれていふのサ、」云々、男も斯う迄仇つぽく艶やかづくめ
に変つて来て居る。此五段目の趣向は四編追加の上に収められ、其序に
きのえうま
天保五年甲午の正月と記してあるから、先づ以上は文化の末から文政を
跨いで天保の初頃の風俗と断定して宜しからう。
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