是は後に水野越前守忠邦が老中となつて宿弊一掃を心掛け、天保九年
いよい
に幾回も布令を出した、それと表裏照合せて見ると愈よ明瞭になる、即
をごり
ち九年閏四月六日「近来質素節倹の儀に付、外見をのみ心掛け、奢ケ間
やから おのづ
敷族も有之哉に相聞候、右の風儀に有之候得ば、自から勝手向不如意に
相成候間、勤向並武備等の心掛不仕様に可相成哉、常に倹素之儀不
心掛候て、不如意之儀のみ相歎き候は、一己の不覚悟にて候、享保中
かしう
被仰出候通、衣食は勿論、嫁娶の儀式、饗応普請、其外諸道具供廻
之儀迄も堅相守り、専ら倹素相用候て、下々風儀の手本たるべき様弥々
厚く可心掛候」を手初めに、其十日には「享保十六年、天明七年節倹
之儀、條々相触候処、近年致忘却衣食住共奢侈相募り、又は供連等を
やから
も外見を繕ひ、自然及困窮候族も有之哉に相聞候云々」と令し
かうがい た ば
て士人を戒め、更に其廿三日には「櫛笄、カンザシ、キセル、又は多葉
こ もてあそび
粉入、紙入、カナモノ、其外無益なる翫之品々金銀用候儀停止之旨前々
みだり
相触候趣も有之候処、近年猥に金銀等相用、並に売買いたし候者も有
之由相聞、如何之事に候、以来百姓町人、右体之品々金銀器類一切持申
間敷候云々」。
五月五日には「近年町方並在方にて菓子類料理等無益々手数を掛け結
構に致候者有之由、風俗奢侈に相成不宜云々」とある、それから十二
年十一月二十七日の布令には、「近来百姓共奢侈に長じ、衣服飲食共身
分不相応に相成、遠在迄も平日油焼、蝋燭、雪駄を用ひ少しも手廻候者
は家作結構にしつらひ、都て農業に怠り、余業に走り、農家に不似合
遊芸等いたし候ものも有之由に付云々」又十三年四月八日には「野菜
もの等季節いたらざる内売買致す間敷旨前々相触候趣も有之候処、近
このみ せりあひ
来初物を好候儀増長いたし、殊更料理茶屋等にては競合買求、高直之品
たとへ
調理致候段不埒之事に候、譬ばキウリ、茄子、ヰンゲン、ササゲの類、
ごみ
其外モヤシモノと唱へ、雨障子を懸け、芥にて仕立、或は室之内へ炭団
もちひ
火を用、養ひ立、年中時候外れに売出し候段、奢侈を導く基にて、売出
し候もの共も不埒之至に候間、以来モヤシ初モノと唱候野菜類決て作出
しくしう
し申間敷旨在方にも相触候條云々」とある。宿習は容易に改め難きもの、
こうまう
水野忠成によつて導かれた弊風の、病深く膏盲に入つて居る事が知れや
う。
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