Я[大塩の乱 資料館]Я
2012.11.14

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「大塩の乱関係論文集」目次


『民本主義の犠牲者大塩平八郎』

その22

相馬由也

開発社 1919

◇禁転載◇

四、悪貨幣の濫造 (1) 管理人註
   

    ちゆう  流行の置郵して命を伝ふるより早きは、豈独り徳のみであらうぞ、否、       すみやか 風俗の流行の速なるは遥に/\それ以上である。特に当時は参勤交代と いつて全国二百六十幾藩の大小名は一年置に多人数の供揃ひをして江戸 に上り、又下るのであるから、各藩共に其間に泌み込んだ奢侈の風をば             こと 其儘に国土産に持ち帰る。特に家斉将軍は躯幹長大、体力強健であつた                                くだ 為か、四十六人といふ子福者、其中には沢山の姫君が有るので、是が降 つて多く諸侯に嫁する。すると沢山の御側附の女中がそれを擁護して行 くのだから、贅沢な大御所風は直にそれ等の諸藩の奥向に伝はる。色々           けうしや 此様な訳合からして、驕奢諸藩に行渡り、従つて至る所財政難の声を聞     なかんづく いたが、就中幕府の財計は非常に困窮に陥つて居る。  楽翁の老中時代には築山一つでも将軍の自由にならなかつたものだ。 松平信明の側用人に抜擢されたのは天明八年二月であつたが、其翌三月 の事である、家斉将軍が城内に築山を造られた。すると当年まだ廿六歳 の血気盛り、方正剛直の信明の事とて進んで諫めて曰ふには、天下を統                かいだゐ 治遊ばす将軍の御身分としては、海内の名山大海何れか御庭内の物なら                  ずといふ事が御座りませう。されば小つぽけな此様な盆山盆水を何に遊                              しづ ばすと申上げる、御側の者は皆手に汗を握つたといふが、之をを徐かに 聴いて居た楽翁が重々しく口を開いて言ふには、此語が老臣の口から致 しませんで、信明の口から致しました事は誠に恐縮の至で御座りますと 恐入つたから、将軍も致方無く、命じて其築山を毀させたといふ話であ る。

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