同じ日記に岡本豊洲(成)の談話を載せて曰ふ。「豊洲曰く、是れ翁
が日夜腐心焦思する事なり、されども翁が力に及ばず嘆ずべき事なり。
今世専ら物価の騰貴に苦む、翁つら/\案ずるに元文の年金一両に銭二
貫文なり、時に通用の金は所謂文金にて、銭は皆な耳白銅銭なり、其後
南鐐といへる物出来たり。是銀を金に用ふるの始なり、一体銀は何匁と
いふべき品なるに、一片の銀を二つ出して金百匹と号すること関東は其
害を弁ぜざれども、上方にては其謂れなきを悟り、一切に通用せざりし
が、幕府よりそれ/゛\金を下し給ひて頼みがてらに通用し、程なく上
方にても之に慣れて南鐐を通用する事にはなりたれども、いつの間にか
金一両に銭四貫文となれり、其後四文銭又は鉄銭など出来て、寛政年間
より銭相場六貫文となり、近来に至りては、種々様々の金銭出来りて、
相場も両に七貫文となれり、貨幣軽重にて物価の高下する古より誰も言
ふことなれども、物価まで論ずるにも及ばず、銭の価、かく成行きたる
ことは歎はしきことならずやと愁然として語れり」とある。是は更に矢
部駿河守の説に裏書するもので、其文政天保時代に於ける物価騰貴の真
因の貨幣に在る事は、後世を待たず、当時の識者、具眼の士の間に既に
殆ど確定的なものであつたのだ。此豊洲の説には、如何に官権の圧力を
以てしても、経済界に働く自然の妙用は到底左右し得ぬ事が明瞭であら
う。此処にいふ南鐐とは、即ち安政元年に新鋳した銀貨で、此語の意味
はかり
は一体は銀は衡に掛けて何匁といひ、正確に交換すべき筈であるのに、
き
一枚の銀を二つ出して金百匹と頭から推し附けて定めて仕舞ふ事は、関
東では其害を知らずに居るけれども、上方では左様の道理の無い事を知
つて一切通用せなかつたが、幕府でそれ/゛\金迄呉れて頼むので通用
する丈はする事になつたけれども、いつの間にか銭の価が安くなつて四
貫文になつた。其後六貫文になり、近来では七貫文になつて、貨幣の軽
重で物価が上り下りするといふけれど、物価迄言ふに及ばぬ。銭の価が
矢張り同様に上り下りする事此通だと云ふの意である。
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