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我国の歴史を読むと、日本の下層民は一向無力の様に想はれるが、是は
歴史の書き方が悪いので、実際では無く、実際は如何なる治乱盛衰も皆
此下層民の心の向背に由つて分れて居るのである。其一端は夫の朝威を
犯し奉つた不忠の北條執権でも民政に力を尽して居り、又夫の勢威隆々
たる豊太閤さへも眇たる江州の一村民を虐げ得ず、一びした地を二び
仕直して税率を減じ、其感情を緩和した事有る等に現はれて居る。決し
て如何なる世にも国民が絶対に無力で有つた事は無く、又其筈も無い。
けれども大平無事の続く世になると、兎もすると之を軽視して、思はぬ
誤算をする事が有る。何時の世にも戒むべきは是である。私は此感を最
も強く大塩平八郎当時の徳川氏の政治振に抱いた。而して大塩の行動を
、
言ふ迄も無く軌道を外れた遣り方とは見るが、而かも虐げられた無告の
民の鬱憤を代表し、富者と権力者とに対抗して非命の最後を遂げた点は、
所謂身を殺して仁を為し、後の政を為す者をして戒むる所あらしめんと
した者で、其処に一掬同情の涙を禁じ得ない。彼は実に極端なる階級政
治、専制政治の下に、民本主義の第一声を挙げて、脆くも其犠牲者と為
り了つた者である。私は斯う考へた。そこで名くるに「民本主義の犠牲
者」を以てし、彼の性格と彼を包んだ時代とを幾分でも説明したいと思
つて此小冊子の稿を起した。彼の選んだ路は、飽迄凶暴で学ぶ可からざ
る者である。けれども其事実は、一面に現在に於ても猶ほ為政者を深く
戒めるに足ると思ふ。其処に彼の評伝の生命がある。時春にして暖光小
あく
庭にく、背を伸す猫の欠びにも亦長閑な趣がある、あはれ此猫の欠び
にも立つかばかりの水蒸気は、決して気象学者の計算の中に入るまいが、
矢張り雲蒸龍変といふ彼の雲の組成分子として、不可思議な活劇の一部
まぼろし
を演ずるで有らうなどと、幻の様にも淡く其光景を眸底に描いて見た。
弥生の月三 十日記す。
著 者
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掬(きく)
(あまね)く
雲蒸龍変
時流に乗じて
英雄・豪傑が
大活躍するた
とえ
眸底(ぼうてい) |