平八郎には、如何様な血の混雑があつて、如何様な遺伝を受けて居る
かは固より明瞭でないが、其遠祖は駿州の今川義元の一族波右衛門とい
ふ者で、今川氏が織田の勢力に亡さるるや、彼は松平甲蔵、本目権左衛
門、尼崎衛門八の周旋で、参州岡崎の徳川家康に臣事し、豊公の小田原
陣に従ひ、敵将足立勘平を家康の馬前に刺して、当座の褒美に持弓を賜
やが
はり、軅て采地を伊豆の塚本邑に貰つたが、大阪陣には老年の故を以て
戦場に出ず、越後の柏崎の陣屋を守護し居り、其後家康が第九子義直を
尾張に封じた時、従つて名古屋に趣き、嫡子が跡目を継いで永く其家を
すゑ
子孫に伝へたが、季の子は出でて大阪に趣き、東町奉行の与力となり、
其職を世襲する事となつたといふ話である。本来与力、同心は表面は御
抱席だから、格式は譜代席より下であるが、事実は親が御暇願を出せば、
子息が必ず番代仰付けらるゝと云ふ丈の、手続を形式的にする迄で、居
附である。大阪町奉行は京都町奉行と変る事なく、数も二人で、役地も
そば
千五百石、東西の両奉行所に分れ、西は本町橋に近く、東は御城側で天
満橋に近い。其下に各々三十人の与力、五十人の同心が居るが、与力は
高二百石(四つ物成といつて実収入は其四割の八十石)五百坪の屋敷、
同心は十石三人扶持、二百坪の屋敷を貰ふので、大塩家は世々川崎の四
間屋敷の一に住み、何不自由もなく立派な門戸を張つて居た。
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