Я[大塩の乱 資料館]Я
2012.10.19

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「大塩の乱関係論文集」目次


『民本主義の犠牲者大塩平八郎』

その7

相馬由也

開発社 1919

◇禁転載◇

一、平八郎の生立 (3) 管理人註
   

 平八郎は寛政五年を以て此屋敷に生れ、幼名を文之助と称したが、七                           てしほ 歳にして父平八郎敬高並に母をも喪ひ、祖父政之丞成余の手入にかけて            つと どんぎゅう 淋しく育て挙げられた。夙に呑牛の気有り、まだ漸く八九歳の頃とか、                        いきほひ 十五六の町家の少年が、近所で今にも掴み合はんず勢を示し、口論して 居る中に、文之助は駈け寄つて居丈高になり、「此与力町に来て無礼を すな、手打にするぞ」と短い刀に手を掛けた勢に、気を呑まれ喧嘩どこ ろでなく、二少年はスゴ/\立去つたとか、又更に長じて後、天満の出 火に行違を生じ、出役代官篠山十兵衛の高張提灯を打倒して踏破り、 「天満与力大塩文之助で御座る」と豪語したとかいふ伝説が残つて、人   くわいしや        いくばく           はた 口に膾炙されて居るが、其幾干の程度迄信用出来るか、将全然無稽の作                       ろうはい り物語であるかは保証の限でないけれども、祖父老憊の為、文之助は既 に十三四歳の時から御番方見習として出仕して居たらしい事情は、彼が                しよとく     ハ    ノ     ニ ス    ニ 後年佐藤一斎に与へて志を述べた書牘中、「父母僕七歳時、倶没矣、故 ルヲ      ク ケ    ノ ヲ         スル ズンバ  ノ   ニ    ズ       ノ ミ   ニ早承祖父職也、日所接 非赭衣罪囚、必府吏胥徒而已。故  ノ   ハ シ  ル        ニ        ノ     ダ シ      ダ レ ンジテ 耳目聞見莫栄利銭穀之談、与号泣愁冤事、文法惟熟、條例惟是暗  キ        シテ ント     ハ ツ        向者之志、欲立而不立、依違因循、年踰二十。」云々。即ち早く       祖父の職を襲ぎ、赤着物の罪人や役人共にのみ親しみ来り、利慾の話や    わ め 泣き叫喚き申開く様を見聞する外には、判決例を調べるとか、宣文書の 書振りを覚えるとかしふ事のみにして暮し、一向小供の時からの志も起 たずに、愚図々々二十歳以上の年齢になつて仕舞つたといふ意味が述べ てあるので知れる。それのみならず、此外にも猶ほ文化十年、彼の二十 一歳の時には、已に立派に定町廻を勤めて居た確証もあるから、彼は其                                ふ さ 余儀無い境遇からして、早く老成したらしく、従つて如上の伝説に相応    りようれい はしい凌歯s屈の精神も、何時しか養はれて来たで有らうと想ふ。






















老憊
年とって体の
衰えること


「寄一斎佐藤氏書」
石崎東国
『大塩平八郎伝』
その57
幸田成友
『大塩平八郎』
その174





















まっしぐらに

 


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