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平八郎は寛政五年を以て此屋敷に生れ、幼名を文之助と称したが、七
てしほ
歳にして父平八郎敬高並に母をも喪ひ、祖父政之丞成余の手入にかけて
つと どんぎゅう
淋しく育て挙げられた。夙に呑牛の気有り、まだ漸く八九歳の頃とか、
いきほひ
十五六の町家の少年が、近所で今にも掴み合はんず勢を示し、口論して
居る中に、文之助は駈け寄つて居丈高になり、「此与力町に来て無礼を
すな、手打にするぞ」と短い刀に手を掛けた勢に、気を呑まれ喧嘩どこ
ろでなく、二少年はスゴ/\立去つたとか、又更に長じて後、天満の出
火に行違を生じ、出役代官篠山十兵衛の高張提灯を打倒して踏破り、
「天満与力大塩文之助で御座る」と豪語したとかいふ伝説が残つて、人
くわいしや いくばく はた
口に膾炙されて居るが、其幾干の程度迄信用出来るか、将全然無稽の作
ろうはい
り物語であるかは保証の限でないけれども、祖父老憊の為、文之助は既
に十三四歳の時から御番方見習として出仕して居たらしい事情は、彼が
しよとく ハ ノ ニ ス ニ
後年佐藤一斎に与へて志を述べた書牘中、「父母僕七歳時、倶没矣、故
ルヲ ク ケ ノ ヲ スル ズンバ ノ ニ ズ ノ ミ ニ
不得不早承祖父職也、日所接 非赭衣罪囚、必府吏胥徒而已。故
ノ ハ シ ル ニ ノ ダ シ ダ レ ンジテ
耳目聞見莫不栄利銭穀之談、与号泣愁冤事、文法惟熟、條例惟是暗
キ シテ ント ハ ツ ユ
向者之志、欲立而不能立、依違因循、年踰二十。」云々。即ち早く
つ
祖父の職を襲ぎ、赤着物の罪人や役人共にのみ親しみ来り、利慾の話や
わ め
泣き叫喚き申開く様を見聞する外には、判決例を調べるとか、宣文書の
書振りを覚えるとかしふ事のみにして暮し、一向小供の時からの志も起
たずに、愚図々々二十歳以上の年齢になつて仕舞つたといふ意味が述べ
てあるので知れる。それのみならず、此外にも猶ほ文化十年、彼の二十
一歳の時には、已に立派に定町廻を勤めて居た確証もあるから、彼は其
ふ さ
余儀無い境遇からして、早く老成したらしく、従つて如上の伝説に相応
りようれい
はしい凌歯s屈の精神も、何時しか養はれて来たで有らうと想ふ。
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老憊
年とって体の
衰えること
「寄一斎佐藤氏書」
石崎東国
『大塩平八郎伝』
その57
幸田成友
『大塩平八郎』
その174
凌
まっしぐらに
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