Я[大塩の乱 資料館]Я
2013.2.9

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「大塩の乱関係論文集」目次


『民本主義の犠牲者大塩平八郎』

その76

相馬由也

開発社 1919

◇禁転載◇

十 陽明学と彼の所謂孔孟学 (6) 管理人註
   

 いな  否此致良知の説迄は、独り朱子のみならず、多くの学者も同意し得る     事で、夫のスピノーザ、若しくはデーカルトといふが如き人々の、主知 的道徳説とも共通の所があるが、陽明は、是に止まらずして、更に知行      合一論を誤き、知れば必ず知つた刹那に行ふべく、行ふといへば行ふ刹 那に知つて居たものでなければならぬと考へたので、彼は「好色を見る             おこなひ        か は知に属し、好色を好むは行に属す、唯那の好色を見る時已に自ら好み              ひとつ 了る。是れ見了つて後に、又箇の心を立て、好み去るならず、悪臭を聞           にく                   おのづか くは知に属し、悪臭を悪むは行に属す。只那の悪臭を聞く時、已に自ら 悪み了る。是れ聞き了つて後、別に箇の心を立てて、悪み去るならず」               おこなひ といつて居る。即ち知れば必ず行に現れなければならず、行に現れぬ知 といふものがあるなら、其知は真の知ではないと考へた。而して世人が 知行を分つて二分と為し、先づ知り了つて然る後に能く行はんとするも                          のを嘲り、「我如し今且つ講習討論し去り、知の工夫を做し、知り得て          まさ 真にし了るを待ち、方に行の工夫を做し去らんとす、故に遂に終身行は                        きた ず、亦遂に終身知らず、此は是れ小病痛ならず、其来る、已に一日に非       あきらか          こら ず」といつて明に朱子派の読書に精を凝し、先づ知つて後に行ふといふ 説に反対した。是は、頗る実行の上に効果の適切なるものが有ると同時                   こうこう に、朱王の学説の間に、超ゆべからざる鴻溝を画したものであつたが、                       あは 併し是も実際に当つて考へれば、如何に知と行と合して一とすればとて、                                おこなひ 知つて行ふといふ順序は、到底破る事は出来まい。陽明は「知は是れ行 の主意、行は是れ知の工夫、知は是れ行の始め、行は是れ知の成るなり、                      がう 若し会得する時は、只一箇の智を説くも、自ら行の在るあり、只一箇の おこなひ          みづか 行を説くも、已に自ら知の在るなり」といつて居る如く、彼は是をも亦、 一物の両方面の如く説かんとするも、是のみは左様はいかぬ。而して其       あきらか        ことば いかぬ訳は、明に如上の彼れ自身の語の上にも現れて居る。即ち「知は 是れ行の始、行は是れ知の成るなり」といつて居るが、是は唯其知と行                          おのづか ひとの間に一呼吸の空隙も無い事をした丈で、其処には自ら先知後行の                    さ う 順序が存在して見える。是は何としても左様なくてはならぬ筈だ。併し たん/\            とぎよ         いたづら 滔々たる流俗は、多くは一個の蠧魚であつて、徒に書斎の番人をなし、                 たまた     いづ 曾て街頭に現れ出でぬものが多く、偶ま現れ出るものがあつても、神速          おこなひ を欠く。即ち、知と行のとの間の時間が甚だ長いのだが、陽明の説を守 れば、之を痛く短縮せねばならぬ丈は確実である。併し是も亦、陽明の          それがし                やまひ 固より知れる所で「某、今箇の知行合一を説くは、正に是れ病に対する 薬」と白状し、「今若し宗旨を知り得る時は、即ち両箇と説くも亦妨げ                  ず。亦只是れ一箇なり。若し宗旨を会せずんば、便ち一箇と説くも、亦 なにごと    な       むだばなし 甚事をか済し得ん、只是れ間説話」と。説明して居る。








誤き
「説き」か

































鴻溝
大きなみぞ、
へだたり


『伝習録』上
















流俗
世間の風俗、
習慣

蠧魚
本ばかり読
んでいる人


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