Я[大塩の乱 資料館]Я
2012.10.22

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「大塩の乱関係論文集」目次


『民本主義の犠牲者大塩平八郎』

その8

相馬由也

開発社 1919

◇禁転載◇

二、暴の前の大御所政治 (1) 管理人註
   

            つ  文之助長じて父の名を襲ぎ、平八郎と称し、字は子起、中斎。又後素            なづ と号し、其居を洗心洞と名けたが、此平八郎の生れた寛政五年は正に西 暦千七百九十三年に当り、全欧羅巴の思想の大海は仏蘭西革命といふ大                 きな石礫に驚かされて、悪浪天を捲くの勢を呈し、列国は同盟して武力 を以て此風潮の鎮圧を謀れるにも拘らず、熱狂せる仏国民の手は、此年            る い           のぼ 正月の二十一日に国王路易十六世を遂に断頭台に上すといふ凶行を敢て したのであつた。然るに我が日本は洞中の日月甚だ閑なるもので、此正          なりちか  おふぎまち 月の末に中山大納言愛親、正親町大納言公明の両卿が、光格天皇の御宸 書を奉じて江戸に下り、二月十一日に老中松平定信の役宅に参会した。 所謂尊号事件なるものがあつたのである。尊号事件とは、閑院宮家より                               すけひさ 入りて大統を嗣がせ給へる光格天皇が、御孝志よりして、其御生父典親    たてまつ 親王に太上皇の尊号を上らんとせられ、之を関東に謀らせられたので、 幕府では、仙洞に後桜町上皇おはしますに、如何に承久、文安の先例あ ればとて悪例には倣ふ可からずとの理由に由り、定信固く執つて之を不         はゞ 可とし、其議遂に沮むだ、是をいつたものである。


(ひょう)
 


『民本主義の犠牲者大塩平八郎』目次/その7/その9

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