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おもむき
併し乍ら茲に一考すべくは、東西洋の思想の趣の相違である。西洋思
想の、極めて科学的に、組織的に、且つ弁証的であるに対して、東洋思
想は、唯実行的である。故を以て概括的であり、譬喩的であり、従つて、
又非科学的の弊に陥る。西洋は、其説に水も洩らさぬ精細があるけれど
も、其弊は理論的に流れる。東洋は、其説に鳩の巣の如き粗雑なる点は
あるが、其利は実行的の処に在る。少くも之を道徳的方面から観察する
と、右様である。即ち西洋の思想には、部分を明瞭ならしめんとする努
はうふつ
力があるが、東洋の思想には全体を髣髴せしめんとする努力がある。其
故に、前者は、解剖台に臨んで検微鏡を迄用ひるが、後者は、其様な事
ね
を無用として、鷲掴みに我懐にじ込むのだ。前者は、一々定義を設け
て、其用語の的確不変を欲するが、後者は、随機説法で、相手次第に其
舌を縦横に使ふ、前者は、主として人の智識に訴へるが、後者は、主と
かたむき
して人の感情に訴へる傾がある。更に分り易くいへば、前者は、人に月
を教ふるに、必ず大望遠鏡のレンズを透して見た月の姿を以てするもの
だが、後者は、大火球の様だといつたり、盆の様だといつたり、時には
え
鍋葢の様だといつたり、柄の取れた団扇の様だとでも何とでもいひ乍ら、
携へて庭上に出でて、遥に天上の明月を指示する者である。前者は、正
ちじう
確である丈遅重であるが、後者は太簡である丈快速である。前者には、
しる ふたゝ
西瓜の液を分析して一々の成分を報告するので、「宜しい、然らば復び
相混和して、元の西瓜の液にして貰つて味はう」といはれる時に当惑す
すゐくわ
る如き趣があるが、後者には、分析などしては迚も元の水瓜の液になり
い つ
つこないからと考へて、初めから手を触れず、其儘其液を何時でも味は
はんとして居る如き趣がある。学理的といつたら、無論前者であらうけ
れども、実行的といつたら、或は後者であらうとも思へる。早い話が、
カントの十二範疇の理窟を、苦しんで頭に入れた事の方が、容易に陽明
の心即理、知行合一論を体得したものに比べて、果してより多く事功を
ど う あたひ
立て得たか如何か、又立て得べきであるか如何か、少くも一考だけの値
かく
はあると思ふが、それは扨て置き、既に東西洋の思想の傾向に、此の如
き相違ある事が許せるならば、其説明の仕方の、甚だ実感的に走り、科
くわんか
学的精密と根拠とを欠くことには、大に寛仮の余地あるべく、従つて老
ひとた
子の虚無説や平八郎の大虚説の説明も、一び観察の標準をさへ選び変へ
るならば、其実感に訴ふる効果の上に、頗る強烈なる力を持つた事を否
定し得まい。
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寛仮
人の罪や欠点
などを寛大に
扱って、とが
めだてをしな
いこと
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