Я[大塩の乱 資料館]Я
2013.2.13

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「大塩の乱関係論文集」目次


『民本主義の犠牲者大塩平八郎』

その80

相馬由也

開発社 1919

◇禁転載◇

十 陽明学と彼の所謂孔孟学 (10) 管理人註
   

                     おもむき  併し乍ら茲に一考すべくは、東西洋の思想の趣の相違である。西洋思 想の、極めて科学的に、組織的に、且つ弁証的であるに対して、東洋思 想は、唯実行的である。故を以て概括的であり、譬喩的であり、従つて、 又非科学的の弊に陥る。西洋は、其説に水も洩らさぬ精細があるけれど も、其弊は理論的に流れる。東洋は、其説に鳩の巣の如き粗雑なる点は あるが、其利は実行的の処に在る。少くも之を道徳的方面から観察する と、右様である。即ち西洋の思想には、部分を明瞭ならしめんとする努                 はうふつ 力があるが、東洋の思想には全体を髣髴せしめんとする努力がある。其 故に、前者は、解剖台に臨んで検微鏡を迄用ひるが、後者は、其様な事                を無用として、鷲掴みに我懐にじ込むのだ。前者は、一々定義を設け て、其用語の的確不変を欲するが、後者は、随機説法で、相手次第に其 舌を縦横に使ふ、前者は、主として人の智識に訴へるが、後者は、主と           かたむき して人の感情に訴へる傾がある。更に分り易くいへば、前者は、人に月 を教ふるに、必ず大望遠鏡のレンズを透して見た月の姿を以てするもの だが、後者は、大火球の様だといつたり、盆の様だといつたり、時には             鍋葢の様だといつたり、柄の取れた団扇の様だとでも何とでもいひ乍ら、 携へて庭上に出でて、遥に天上の明月を指示する者である。前者は、正      ちじう 確である丈遅重であるが、後者は太簡である丈快速である。前者には、    しる                          ふたゝ 西瓜の液を分析して一々の成分を報告するので、「宜しい、然らば復び 相混和して、元の西瓜の液にして貰つて味はう」といはれる時に当惑す                          すゐくわ る如き趣があるが、後者には、分析などしては迚も元の水瓜の液になり                            い つ つこないからと考へて、初めから手を触れず、其儘其液を何時でも味は はんとして居る如き趣がある。学理的といつたら、無論前者であらうけ れども、実行的といつたら、或は後者であらうとも思へる。早い話が、 カントの十二範疇の理窟を、苦しんで頭に入れた事の方が、容易に陽明 の心即理、知行合一論を体得したものに比べて、果してより多く事功を       ど う                        あたひ 立て得たか如何か、又立て得べきであるか如何か、少くも一考だけの値                              かく はあると思ふが、それは扨て置き、既に東西洋の思想の傾向に、此の如 き相違ある事が許せるならば、其説明の仕方の、甚だ実感的に走り、科                   くわんか 学的精密と根拠とを欠くことには、大に寛仮の余地あるべく、従つて老                   ひとた 子の虚無説や平八郎の大虚説の説明も、一び観察の標準をさへ選び変へ るならば、其実感に訴ふる効果の上に、頗る強烈なる力を持つた事を否 定し得まい。

寛仮
人の罪や欠点
などを寛大に
扱って、とが
めだてをしな
いこと



『民本主義の犠牲者大塩平八郎』目次/その79/その81

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