論者は又平八郎の帰太虚の説を非難し、其科学的智識の欠乏や、扨は
物質界の空虚と精神界の空虚とを同一視した事を挙げて、方寸の虚とは
物慾を払つた精神界の虚であるのに、之を物質界の身外の虚と相通ずる
とは理解の欠けた話といふが、是は孰れも御尤もの事で、如何にも科学
的智識の幼稚な時代の彼の思想として、現代人の眼から厳密な批評の刃
を向けられたなら一たまりもないであらうが、併し是も平八郎の発明で
はなく、公平に言へば、日本、支那を通じての古来の東洋思想に共有の
ものであつたのだ。現に平八郎は老子を読んで居るので、箚記の開巻第
こくしん
一には「況んや老子の云ふ所の谷神をや」とも称して、老子の用語を引
か
用して居る位だが、其老子は、彼の著名なる虚無説を立証すべく、如何
ハ ニス ヲ ツテ ニ リ ノ シテ
なる説明を用ひて居るか、彼は「三十幅共一殻、当其無有車用
ヲ テ ス ト ツテ ニ リ ツテ ヲ テ ス ト ツテ ニ リ
埴以為器,当其無有器之用、鑿戸以為室,当其無有室之
ニ ハ ヲ テ セバナリ ヲ
用、故有之為利無之以 為 用、」とあり、三十本の車の矢骨は一
こしき はたらき
つの轂に集つて居るが、其中が空虚で軸の通り得る処に車の働がある。
こ
粘土を捏ねて器物を作るが、其器物の内が空虚で、食物が盛れる処に器
まど うが うち
物の働がある。戸口やを穿つて室を作るが、其中の空虚が太陽の光線
を通ずる処に室の働がある、それ故に、目に見える実有の者の役立つの
は、目に見えぬ虚無の者の働くからであるとの意味を語つて居るが、此
最後の句に在る有と無とは、共に吾人の精神状態を説くもので、従つて
前の三種の物質と何等相渉る事無きは、了々たるものである。平八郎の
太虚の説明も亦、是と酷似するもの、然らば平八郎は誤れりとするも、
それは従犯とも目すべく、別に主犯がある。主犯を罪せずして、独り従
犯を罪するは法に於ても、失当であらう。
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