吾人の日常の感じからすると、気息を殺して憂慮に耽る時には、心内
や
物ありて、充塞するが如く考へ、ホツと一息して憂慮を止めれば、心内
忽ち空虚なるが如くに感ずる。此時「何、心臓内が空虚で堪るものか、
血液が充足して居る」といつたら、一言なく、更に「考へる場所は脳だ、
方寸の心臓でなどあるものか」といつたら、是には二の句は継げまいが、
す
而かも、実感からいへば、憂慮を棄つる時と、気息を吐く時と、同時で
いと
あるが故に、方寸の虚といふ事は理解し易い。然らば言詮の束縛を厭う
て、直に実行に志す平八郎の思想としては、何人にも理解し易い此方寸
の虚からして、更に太虚に説き及ぼし、又此具体的の虚を以て、更に精
神界の虚に結ひ付けるとも、固より怪しむを用ひまい。彼は月を教うる
に指を以てして居るのだ、指が悪ければ、鞭を以てするも、扇子を以て
するも宜しい、教へ了れば、指の用はないのである。然るに此指を非難
して、是は月に非ずして指だ、間違つて居るといつたならば、地下の平
ど う かんがへ
八郎は果して首肯するであらうか如何か。予は此様な考で、是にも左迄
ながれ
の非難を加ふるを避ける。彼の気質変化の説の如きも、亦流を多く張横
渠に汲むものに過ぎぬが、委しく述べんには、述ぶべき事が余りに多い
から、茲には煩を避けて一切を思ひ止まる。
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