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しんがう
而かも彼の良知を呼起すといふ事は、直に陽明の龍場の災厄、宸濠の
おもひおこ つらな
国難を憶起さす事と相連る、平八郎は彼の自白の如く、其志は三変し、
ひ
中間には詞章、訓詁の末にも牽かれたのだが、遂に陽明は究め至つて、
活眼を開いた。陽明によつて得た所の者は知である、理である。而して
此知や理や、彼に教ふるに、水に入りて溺れず、火に入りて熱せざる不
動心を以てし、事変に臨んで節義を失はざれと慫慂した。其模範は龍場
へい
の災厄、宸濠の国難で、彼の眼には、炳として、日星の如くにこれが輝
わら
いて居る。それで彼には地下の陽明に嗤はれざらんとするの心が常に止
まなかつたであらう。而かも陽明学は心の学問であつて、之を体得すれ
ひとへ
ば、我行為の善悪は、偏に良知の判断に任せ、俗人の道徳的形式に毫も
束縛されぬ。即ち世間の毀誉褒貶を以て面上一過の微風程にも思つて居
らぬ事になる。而して吾人の心理の不可思議なる現象として、節義を取
いづこ
失はざらん、取失はざらんと不断に注意するの結果は、何処にてか節義
に殉ぜん、殉ぜんと心掛くるに至り、遂には我知らず、求めて其節義に
ま
殉ずるの地を造出さんとするにも至り易いものである。況して平八郎の
剛直峻峭の質を以てして、頻に時事の非なるを見るに於てをやだ、彼の
ときう かうせいしよ
感情は、山林に向つて菟裘の好棲処を求めしめんと欲せしめたのだ、而
うしろ
かも彼の理智、換言すれば、彼の陽明学は、絶えず後より彼を拘制して、
つい きくわり
終に自ら危禍裏の人となつて焚死せしむるに至つたのである。彼も亦不
可思議なる運命の綱に操られたものであつたのだ。
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龍場の災厄
王陽明は、劉瑾
の讒言により僻
地の貴州省北部
の龍場に左遷さ
れた。厳しい生
活を送りながら、
「龍場の大悟」
を生んだ
宸濠の国難
宸濠の乱、
1519年に寧王
朱宸濠が帝位を
狙い挙兵した
炳
明らかなさま
菟裘
官を辞して隠
居する地
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