Я[大塩の乱 資料館]Я
2013.2.23

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「大塩の乱関係論文集」目次


『民本主義の犠牲者大塩平八郎』

その85

相馬由也

開発社 1919

◇禁転載◇

十一、其死生観 (4) 管理人註
   

                             しんがう  而かも彼の良知を呼起すといふ事は、直に陽明の龍場の災厄、宸濠の    おもひおこ        つらな 国難を憶起さす事と相連る、平八郎は彼の自白の如く、其志は三変し、               中間には詞章、訓詁の末にも牽かれたのだが、遂に陽明は究め至つて、 活眼を開いた。陽明によつて得た所の者は知である、理である。而して 此知や理や、彼に教ふるに、水に入りて溺れず、火に入りて熱せざる不 動心を以てし、事変に臨んで節義を失はざれと慫慂した。其模範は龍場                  へい の災厄、宸濠の国難で、彼の眼には、炳として、日星の如くにこれが輝                  わら いて居る。それで彼には地下の陽明に嗤はれざらんとするの心が常に止 まなかつたであらう。而かも陽明学は心の学問であつて、之を体得すれ           ひとへ ば、我行為の善悪は、偏に良知の判断に任せ、俗人の道徳的形式に毫も 束縛されぬ。即ち世間の毀誉褒貶を以て面上一過の微風程にも思つて居 らぬ事になる。而して吾人の心理の不可思議なる現象として、節義を取                          いづこ 失はざらん、取失はざらんと不断に注意するの結果は、何処にてか節義 に殉ぜん、殉ぜんと心掛くるに至り、遂には我知らず、求めて其節義に                           殉ずるの地を造出さんとするにも至り易いものである。況して平八郎の 剛直峻峭の質を以てして、頻に時事の非なるを見るに於てをやだ、彼の           ときう   かうせいしよ 感情は、山林に向つて菟裘の好棲処を求めしめんと欲せしめたのだ、而                        うしろ かも彼の理智、換言すれば、彼の陽明学は、絶えず後より彼を拘制して、 つい      きくわり 終に自ら危禍裏の人となつて焚死せしむるに至つたのである。彼も亦不 可思議なる運命の綱に操られたものであつたのだ。

龍場の災厄
王陽明は、劉瑾
の讒言により僻
地の貴州省北部
の龍場に左遷さ
れた。厳しい生
活を送りながら、
「龍場の大悟」
を生んだ

宸濠の国難
宸濠の乱、
1519年に寧王
朱宸濠が帝位を
狙い挙兵した


明らかなさま




















菟裘
官を辞して隠
居する地
 


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