Я[大塩の乱 資料館]Я
2013.2.24

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「大塩の乱関係論文集」目次


『民本主義の犠牲者大塩平八郎』

その86

相馬由也

開発社 1919

◇禁転載◇

十二、天保七年の飢饉と大阪 (1) 管理人註
   

               はじめ  何をか時事を非也といふか、そは初に説ける当時の幕政の腐敗が十分                   うち に之を物語つて居るが、左様いふ腐敗の中から生れて来た大阪の両奉行 であるから、多くは江戸向の御覚へ目出度からん様にのみ、一時を糊塗 して過ごすものが多く、而して天保七年七月に東町奉行として赴任した                                跡部山城守良弼も、亦此亜流に過ぎなかつた。平八郎の目からは、夫の          ぐらゐ の直諒の高井山城守位が気を許せ、賢達の矢部駿河守位が先づ話せた町       ことごと ちくたうぼくせつ                   こと 奉行で、他は尽く竹頭木屑、束にもならぬ人間であつたに相違ない、特           じ り                  ゆが   おご に跡部に至つては、事理に暗く、事体に通ぜぬのみでなく、心歪み気驕 るが如くに見え、其一挙一動は、過敏なる彼の神経に不断の刺激を与へ、 それが募り募つて、最後には、最早や堪忍罷り成らぬと迄思ひ迫るに至 つたものであらう。  天保七年は、同四年の飢饉の余を受けて、それにも優る大飢饉、四国、 九州は左程でもなかつたらしいけれども、其他の諸国、分けても奥羽、 東北の惨状といつたら、目も当てられぬ有様、一体に其年の気候は珍し          ぢやうづとめ い不順で、当時江戸定勤を命ぜられて居た東湖の常陸帯を見ると、「五 月六月の空、いと掻きくもり、艮(東北)の方より冷風吹来り、気候二 月の如く、五穀実らず」とある通り、東北辺は猶強く、盛岡では、中元 の登城の帷子の下へ銘々綿入れを着たとさへ聞く、是では五穀の実り様      ま    ながあめ もない、況して淋雨で、諸国に大洪水が出る、実に近年稀なる大凶作で、     さうこん 飢民は皆草根を堀り、木皮を喰へば、廻米は江戸に入らず、富豪ですら        がへう 皆粥を啜つた。餓道に満ちて、行倒れもの甚だ多く、三家の外出には、 其職のものが先づ其道筋を検分し廻つて、穢れたものを尽く取除けさせ、                                とて 犬猫の屍骸でも目も入れぬ様にするのが例であつたが、此年ばかりは迚 も手が廻り兼ね、水戸烈公の或日の登営の途中に、此餓死者が其目に触 れた為に、公は自邸に帰ると早速役人を招き寄せ、「貴賤共に同じ人間 なるに、餓死するは見るに忍びぬ、切めては我領内の者なりとも、一人 の餓死者なからしめよ、国中に有る丈の米穀が尽きて死ぬるなら、已む                そこばく を得ぬけれど、一方に富める者が若干の穀物を蓄へ乍ら、貧人のみ死ぬ とは政道の宜しくない証拠だ」といはれたといふが、以て其一斑を窺ひ          ことば   ありがた 得べく、そして烈公の語には難有き人君の慈悲心が有る。












竹頭木屑
細かい物事も
おろそかにし
ないこと

事理
事の筋道
















藤田東湖
『常陸帯』中
「飢饉を救ひ
給ふ事」の記事
















水戸烈公
徳川斉昭


『民本主義の犠牲者大塩平八郎』目次/その85/その87

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