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ひ はじめ
何をか時事を非也といふか、そは初に説ける当時の幕政の腐敗が十分
うち
に之を物語つて居るが、左様いふ腐敗の中から生れて来た大阪の両奉行
であるから、多くは江戸向の御覚へ目出度からん様にのみ、一時を糊塗
して過ごすものが多く、而して天保七年七月に東町奉行として赴任した
そ
跡部山城守良弼も、亦此亜流に過ぎなかつた。平八郎の目からは、夫の
ぐらゐ
の直諒の高井山城守位が気を許せ、賢達の矢部駿河守位が先づ話せた町
ことごと ちくたうぼくせつ こと
奉行で、他は尽く竹頭木屑、束にもならぬ人間であつたに相違ない、特
じ り ゆが おご
に跡部に至つては、事理に暗く、事体に通ぜぬのみでなく、心歪み気驕
るが如くに見え、其一挙一動は、過敏なる彼の神経に不断の刺激を与へ、
それが募り募つて、最後には、最早や堪忍罷り成らぬと迄思ひ迫るに至
つたものであらう。
天保七年は、同四年の飢饉の余を受けて、それにも優る大飢饉、四国、
九州は左程でもなかつたらしいけれども、其他の諸国、分けても奥羽、
東北の惨状といつたら、目も当てられぬ有様、一体に其年の気候は珍し
ぢやうづとめ
い不順で、当時江戸定勤を命ぜられて居た東湖の常陸帯を見ると、「五
月六月の空、いと掻きくもり、艮(東北)の方より冷風吹来り、気候二
月の如く、五穀実らず」とある通り、東北辺は猶強く、盛岡では、中元
の登城の帷子の下へ銘々綿入れを着たとさへ聞く、是では五穀の実り様
ま ながあめ
もない、況して淋雨で、諸国に大洪水が出る、実に近年稀なる大凶作で、
さうこん
飢民は皆草根を堀り、木皮を喰へば、廻米は江戸に入らず、富豪ですら
がへう
皆粥を啜つた。餓道に満ちて、行倒れもの甚だ多く、三家の外出には、
其職のものが先づ其道筋を検分し廻つて、穢れたものを尽く取除けさせ、
とて
犬猫の屍骸でも目も入れぬ様にするのが例であつたが、此年ばかりは迚
も手が廻り兼ね、水戸烈公の或日の登営の途中に、此餓死者が其目に触
れた為に、公は自邸に帰ると早速役人を招き寄せ、「貴賤共に同じ人間
なるに、餓死するは見るに忍びぬ、切めては我領内の者なりとも、一人
の餓死者なからしめよ、国中に有る丈の米穀が尽きて死ぬるなら、已む
そこばく
を得ぬけれど、一方に富める者が若干の穀物を蓄へ乍ら、貧人のみ死ぬ
とは政道の宜しくない証拠だ」といはれたといふが、以て其一斑を窺ひ
う ことば ありがた
得べく、そして烈公の語には難有き人君の慈悲心が有る。
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竹頭木屑
細かい物事も
おろそかにし
ないこと
事理
事の筋道
藤田東湖
『常陸帯』中
「飢饉を救ひ
給ふ事」の記事
水戸烈公
徳川斉昭
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