Я[大塩の乱 資料館]Я
2013.2.25

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「大塩の乱関係論文集」目次


『民本主義の犠牲者大塩平八郎』

その87

相馬由也

開発社 1919

◇禁転載◇

十二、天保七年の飢饉と大阪 (2) 管理人註
   

 然るに当時の跡部には、此心が乏しかつた。元来は江戸は政治の中心 であつたに相違ないけれども、商業の中心は大阪に在つたので、東西諸 藩の米穀其他の産物は、皆多く大阪に集り、其処に各藩の御蔵屋敷があ り、蔵役人が居つて其財務を掌り、銀に換へて国元並に江戸屋敷に送り、 其藩一切の費用に供したのだ、今の堂島の米穀取引所の起因を尋ねれば、 此諸侯の廻米売捌に在るので、元は蔵役人が即蔵元であつて、米穀の取                              まか 扱を自らして居たが、寛永、正保の頃に至つて、此売捌を商人に任した。 即ち大阪の大川町(今の淀屋橋南町)に居住した淀屋与右衛門、二代目 源右衛門、三代目辰五郎等が、西国筋諸侯の積登せ米を引受けて、之を       はじまり          もと 売捌いたのが嚆矢だ。此様な訳で米穀は固より、其他の貨物も多く、大 阪より江戸其他に廻す事となり居り、江戸には菱垣船、樽船の二組に積                                めぐ んで廻した、樽船は名の如ぐ酒樽を積む為に起つた名、菱垣船は船に繞 らす垣の子が、他船の格子であると違へ、是のみは菱に組んであつたか らの名で、菱垣船には、酒樽以外の一切の貨物を積んだのであつたが、 後には其分ち無く、両船共に大阪の二十四組の問屋の貨物を扱ひ、それ     とくみ を江戸の十組問屋に渡すといふ風になつて居たのだ、それ故、何品に限       もと らず、相場の本は大阪で定まる。例せば、後に官命を以て樽船を停廃し て菱垣船一つを許す事にしたら、江戸の物価はそれより高価になり続け た。そこで、幕府は全国の貨物が大阪を経て江戸に入る、其商権を江戸 の十組の問屋が専有して居るのでは、物価が益々高くなるのも当然だと                              たゞち て、此十組問屋の特権を廃し、全国各藩をして、大阪を経ずに、直に其 産物を江戸に廻送させる様にしたが、結果は予期に反して益々江戸の物 価を吊上げた、怪しいとて段々其原因をを探つて見るに、大阪では新令                            あたひ の打撃を受けて、二十四組の取扱貨物が減じたから、是迄の価では、今 迄通りの利益が得られぬ、そこで已むなく、現在取扱ふ少額の貨物に、               ねだん 今迄通りの利益の得られる様に直段を割つたから、自然江戸廻しの物価                   もと       あが を高くした。すると江戸の相場は、之に本づいて亦昂る、諸藩の貨物も        江戸の相場が彼れで売れるものを左様迄損をする事はないとて、例へば     あたへ           銀一匁の価の者なら僅に五厘か一分を下げ、九分五厘か九分に売るとい ふ始末と知れたといふ。此様な次第で、自然に商機の活発なるは大阪に                  あた 及ぶ所なく、従つて悪貨幣の影響は、宛かも精巧なるバロメーターに外 気の感ずる如くに感ずるので、銀相場の狂ひ方は甚しかつたといふ。す れば物価の一昂一低は最も敏活に此地から動くが、更に此大飢饉で、諸 藩の蔵米が著しく減ずる。米価の暴騰は、大阪市民の未だ曾て知らざる                のぼ 所、六月下旬に已に一石百匁台に上り、十一月には百五十匁を抜き、年            やが 末には二百匁を超える、軅て年を越し、二百十五六匁にもなる、其他の 雑穀でも、小麦が一升二百文、白麦が百五十二文、大豆が百二十五文、 酒一升二百八十文、油五百八十文といふ一足飛の高価になつたので、所 詮細民の竈の烟の立ち行き様が無い。



『民本主義の犠牲者大塩平八郎』目次/その86/その88

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