Я[大塩の乱 資料館]Я
2013.2.26

玄関へ

「大塩の乱関係論文集」目次


『民本主義の犠牲者大塩平八郎』

その88

相馬由也

開発社 1919

◇禁転載◇

十二、天保七年の飢饉と大阪 (3) 管理人註
   

 すで  已に此年には、野州でも、日光山の領民が奉行所を包囲して、籾倉を ひら    どごう                       かす 発けと恐号する。烏山にも一揆が起つて、城下の市中の豪家を掠め廻る。 なかんづく 就中八月に起つた甲州郡内領の百姓騒動は、其最も猖獗な者で、甲府城 下を焼払ひ、近傍の大名から出兵して漸く取鎮めた程であつた。人飢う れば乱を思ふは、古今已むを得ざる人情である。其故に支那思想では、      くだ 天が災厄を降して、悪政を戒むるといふ所以で、古来英雄豪傑が草奔よ  くつき り倔起し、易姓革命の大波瀾を捲起すは、多く此人心の最も動揺し易き               危機を利用したものである。夫の仏国大革命の如きも矢張り当時の其一 大飢饉が誘因を為したものでないか。此点は苟も史的眼光を有する為政 者ならば、最も恐れ、且つ慎まなければならぬ筈である。然るに時の大 阪町奉行等は此危機に如何様の術を以て処したか。  天保四年にも矢張り時気不順で、淋雨止まず、初ちぎりの茄子に季秋                  きた の味がしたとて、二ノ宮尊徳は、早く来るべき凶荒を予知し、桜山の住 民を戒めたとも聞くが、果して大凶作で、全国皆飢に泣き、江戸でも其                    さつて 郭外の千住宿では暴民が米屋を襲撃する。幸手宿では、飢民が蜂起して 富戸を破壊し廻る有様であつたがけれども、此年は大阪に何事も無く済 んだが、由来大阪とて柔順一方では無い、其前後の飢饉即ち天明七年の 大飢饉には、五月十二日に、大阪町人が暴動を起して、米屋並に富豪の 家々を襲撃し廻り、近国、之に風動して事体頗る重大と為り、月末に至                         ど う つて辛うじて鎮まつたといふが、それが此四年には如何して無事であつ たかといふに、少くも時の両町奉行矢部駿河守、戸塚備前守等の処置が                              い か 当を得た事が、其一因を為して居らうと思ふ、矢部、戸塚等は如何にし たかといふに、矢部の当時の持論として、近年の諸式の高価は悪貨幣に 在るといふのだが、それのみは矢部の自由にもならぬから、焦眉の急と して、彼は次善の策を取つたのだ。彼等は先づ買占囲持等をする奸商の 取締を厳にし、大阪三郷より他所への輸出米を制限し、酒造高を制限し、 一方に大阪の廻米増加を謀ると共に、他方に難波、川崎に在る官の穀倉                    ひら と、島町、将棊島に在る市の籾倉とを併せ発き、更に平野屋五兵衛、鴻 池善右衛門、加島屋久右衛門等を筆頭に、紳商巨買の寄捨を募り、市内     あまね の窮民に普く米銭の給与をした。其時江戸でも米穀の不足に苦んで、大                         のぼ 阪町奉行に命じ、大阪の廻米の三分の一を必ず江戸に上す様にといつて 来たが、此命は其後内々に撤回になつて居るのも、確証の今握られて居 るものはないけれども、矢張り矢部等の内密なる運動の効果であつたと           きやうこう 想ふ。就中矢部は仲々強項児で、天保八年に彼の勘定奉行を罷められた              ないど のも、諸国窮民多く、幕府も内帑枯渇して居る時に、西ノ丸の御普請は 当を得ぬ。西ノ丸焼失で家斉公の御居所が無いとならば、当分三ノ丸に おんすまゐ 御住居遊ばすが宜しいと直言した為であつたといふ。それ程の男だから、 此時の幕命をも、大阪市民の困窮を楯に、拒絶の運動をした位は何でも あるまいと想ふ。



野州
下野国

恐号
「怒」号か

猖獗
悪い物事がは
びこり、勢い
を増すこと



倔起
屈起、急に起
き立つこと



















































紳商
教養・品位を
備えた一流の
商人







強項
容易に屈伏し
ないこと

内帑
君主の所有す
る財貨


『民本主義の犠牲者大塩平八郎』目次/その87/その89

「大塩の乱関係論文集」目次

玄関へ