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すで
已に此年には、野州でも、日光山の領民が奉行所を包囲して、籾倉を
ひら どごう かす
発けと恐号する。烏山にも一揆が起つて、城下の市中の豪家を掠め廻る。
なかんづく
就中八月に起つた甲州郡内領の百姓騒動は、其最も猖獗な者で、甲府城
下を焼払ひ、近傍の大名から出兵して漸く取鎮めた程であつた。人飢う
れば乱を思ふは、古今已むを得ざる人情である。其故に支那思想では、
くだ
天が災厄を降して、悪政を戒むるといふ所以で、古来英雄豪傑が草奔よ
くつき
り倔起し、易姓革命の大波瀾を捲起すは、多く此人心の最も動揺し易き
か
危機を利用したものである。夫の仏国大革命の如きも矢張り当時の其一
大飢饉が誘因を為したものでないか。此点は苟も史的眼光を有する為政
者ならば、最も恐れ、且つ慎まなければならぬ筈である。然るに時の大
阪町奉行等は此危機に如何様の術を以て処したか。
天保四年にも矢張り時気不順で、淋雨止まず、初ちぎりの茄子に季秋
きた
の味がしたとて、二ノ宮尊徳は、早く来るべき凶荒を予知し、桜山の住
民を戒めたとも聞くが、果して大凶作で、全国皆飢に泣き、江戸でも其
さつて
郭外の千住宿では暴民が米屋を襲撃する。幸手宿では、飢民が蜂起して
富戸を破壊し廻る有様であつたがけれども、此年は大阪に何事も無く済
んだが、由来大阪とて柔順一方では無い、其前後の飢饉即ち天明七年の
大飢饉には、五月十二日に、大阪町人が暴動を起して、米屋並に富豪の
家々を襲撃し廻り、近国、之に風動して事体頗る重大と為り、月末に至
ど う
つて辛うじて鎮まつたといふが、それが此四年には如何して無事であつ
たかといふに、少くも時の両町奉行矢部駿河守、戸塚備前守等の処置が
い か
当を得た事が、其一因を為して居らうと思ふ、矢部、戸塚等は如何にし
たかといふに、矢部の当時の持論として、近年の諸式の高価は悪貨幣に
在るといふのだが、それのみは矢部の自由にもならぬから、焦眉の急と
して、彼は次善の策を取つたのだ。彼等は先づ買占囲持等をする奸商の
取締を厳にし、大阪三郷より他所への輸出米を制限し、酒造高を制限し、
一方に大阪の廻米増加を謀ると共に、他方に難波、川崎に在る官の穀倉
ひら
と、島町、将棊島に在る市の籾倉とを併せ発き、更に平野屋五兵衛、鴻
池善右衛門、加島屋久右衛門等を筆頭に、紳商巨買の寄捨を募り、市内
あまね
の窮民に普く米銭の給与をした。其時江戸でも米穀の不足に苦んで、大
のぼ
阪町奉行に命じ、大阪の廻米の三分の一を必ず江戸に上す様にといつて
来たが、此命は其後内々に撤回になつて居るのも、確証の今握られて居
るものはないけれども、矢張り矢部等の内密なる運動の効果であつたと
きやうこう
想ふ。就中矢部は仲々強項児で、天保八年に彼の勘定奉行を罷められた
ないど
のも、諸国窮民多く、幕府も内帑枯渇して居る時に、西ノ丸の御普請は
当を得ぬ。西ノ丸焼失で家斉公の御居所が無いとならば、当分三ノ丸に
おんすまゐ
御住居遊ばすが宜しいと直言した為であつたといふ。それ程の男だから、
此時の幕命をも、大阪市民の困窮を楯に、拒絶の運動をした位は何でも
あるまいと想ふ。
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野州
下野国
恐号
「怒」号か
猖獗
悪い物事がは
びこり、勢い
を増すこと
倔起
屈起、急に起
き立つこと
紳商
教養・品位を
備えた一流の
商人
強項
容易に屈伏し
ないこと
内帑
君主の所有す
る財貨
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